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第22話 天才の誕生(3)

 ほのかに甘い香りがする。近くの花瓶にはハーデンベルギアが生けてあった。


「ここは......身体も頭も痛ぇ......」


 よく見ると、傷口にはガーゼが当てられ、丁寧に包帯が巻かれていた。しかし、包帯にはほんの少しだが、『毛』が挟まれており、どこかぎこちなさも感じさせた。


 ――なんか嫌だな。


 ふと、気になって包帯に鼻を近づけてみると、僅かながら犬の肉球のような香ばしい香りを発しており、思わず顔をしかめた。


 ――この感じ......もしかして。


 木材の軋む音がする。音のするほうに視線を向けると、ドアが開いており、青空のような透き通った瞳が覗いていた。


「お、お加減はどうですか?」


 ドアが再び動き始めると、一人の少女が部屋に入ってきた。鮮やかな若草色を帯びた黄色の髪の毛を持っており、白いレースが付いたボンネットをかぶっていた。

 少女はトコトコと音が鳴るような小さな歩幅でアムールに近づくと、そばにある丸椅子に腰を掛けた。


「失礼しますね」


 少女は水を掬うようにアムールの手を持ち上げると、親指を手首に押し当てた。少女の柔らかな肌からぬくもりを感じる。辺りは静まり返り、少女と青年の鼓動だけが部屋を鳴らす。絡み合うように鳴り響く鼓動に耳を傾けていると、少女が口を開く。


「脈は落ち着いてますね。でも、少し熱い......かな? いや、私の体温が低いだけかも......よくわからない」

「あはは......本に書いてあるようにはいきませんね。世の中の人達は凄いなぁ」

「......」

「えーっと......とりあえず包帯を新しいのに替えさせていただきますね」


 そう言うと少女は、薬箱の中から新しい包帯とガーゼを取り出し、準備を始めた。少女の身体が揺れるたびに、レースの上についた大きな黒いリボンが揺れ動く。


 ――きれいだな。


 アムールはプレゼントを前にした子供のように、ほどきたい衝動に無性に駆られてた。普段ならば、気にも留めないただのリボンであるはずなのに、なぜか引力に引っ張られるように、彼の手は吸い寄せられていった。

 やがて、リボンに手に届き、柔らかなシルクのような感触が伝わった時であった。


「これで良しと。準備ができたので、早速――」


 突然振り返った少女に驚き、アムールのあげられた手はボンネットを弾いてしまった。


「キャ!」


 少女の声と共に、弾かれたボンネットが宙を舞い落ちていく。


「あぁ......わりぃな」


 ――何やってるんだ......俺は。


 アムールは自分の行いに疑問を持ちながらも、床に落ちたボンネットを拾いあげる。同時に、彼の視線が少女の脚を伝い、身体、そしてある一転で止まった。


「あ――」


 アムールの口から思わず声がこぼれる。彼の瞳には豊かで柔らかく、それでいて、ぬいぐるみのように愛らしい三角の耳が写っていた。


 ――獣人!


 少女が現れた瞬間からアムールの心に漂っていた、雲霧(うんむ)のような疑念が霧散していく。脳裏をよぎったのは、かつて街角で邂逅した獣人の行商人の姿だ。人間離れした鋭敏な嗅覚、全身を覆う獣の毛、そして肉を引き裂くための鋭利な爪。同じ『人』という括りにあることが信じがたいほどの、圧倒的な異形性。

 ――だが、目の前の少女はどうだ。改めて視線を走らせたアムールは、奇妙な違和感を覚えた。すべすべの肌、丸く整った爪、人間と同じ様相――そこには、獣人であるはずの彼女を象徴する「獣」の片鱗すら見当たらなかったのだ。

読んでいただきありがとうございます!

ちなみにボンネットとは、18世紀から19世紀にかけてよく使われた欧州の代表的な婦人用の帽子の事です!

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