第8話:休日の深呼吸
長かった雨が上がり、久しぶりに晴れ間が覗いた日曜日。
今日は『Farm Cafe Katze』の定休日だ。
いつもなら、開店前の仕込みだ掃除だとバタバタ動き回っている時間だが、今日は違う。
時計の針は午前九時を回ろうとしているのに、俺はまだパジャマのままだ。
「ふわぁ……よく寝た」
目覚ましをかけずに、太陽の光で目を覚ます。
これ以上の贅沢があるだろうか。
隣の部屋から、微かに鼻歌が聞こえてくる。
「♪〜」
居間に行くと、ほなみがソファに深く座り、膝の上に毛糸玉を乗せて編み物をしていた。
窓から差し込む柔らかな光が、彼女の横顔を照らしている。
「おはよう、ほなみ。早いね」
「あ、おはようございます孝文。ふふ、赤ちゃんがポコポコ動くので、目が覚めちゃいました」
ほなみは愛おしそうにお腹を撫でる。
編んでいるのは、淡い黄色のベビー服だろうか。小さな袖が、これから来る新しい未来を予感させる。
「おはよう! お寝坊さんたち!」
庭の方から、元気な声が飛んできた。
縁側にはサクラコが座り、スケッチブックに何かを描いている。足元にはアリスが寝そべり、黒ヤギが庭の草を食んでいる平和な光景だ。
「サクラコも早起きだな。何描いてるんだ?」
「んー? 今日のアリス。この寝顔、最高にブサイクで可愛いの!」
見せてもらったスケッチブックには、白目を剥いて爆睡するアリスの姿が、やけにリアルに描かれていた。10歳のお婆ちゃん犬だが、寝顔は子犬の頃と変わらないな。
確かに可愛い……のか?
「さてと。今日は天気もいいし、庭でランチにしようか」
「賛成! ホットサンドメーカー使いたい!」
「いいですね。私、サラダとスープ作ります」
店で出す料理とは違う、気取らない「おうちごはん」。
俺たちは各々準備に取り掛かった。
俺は庭の焚き火台に火を起こす。
サクラコはパンにチーズとハムを挟み、ほなみは手際よく野菜を刻む。
やがて、香ばしいパンの焼ける匂いが庭に広がった。
「いっただっきまーす!」
青空の下でかぶりつくホットサンドは、格別の味がした。
店で出す凝った料理もいいけれど、こういうシンプルなものが一番美味く感じる時がある。
「あー、幸せ……。何もしないって、最高だね」
サクラコが芝生の上に大の字になって呟く。
その言葉に、俺も深く頷いた。
「そうだな。毎日忙しく働いてると、こういう時間が本当に貴重に感じるよ」
「昔は、ただ過ぎていく時間が怖かったんですけどね……」
ほなみが遠くを見つめるように言った。
「今は、このゆったりとした時間が、愛おしくて仕方ないです」
午後になると、俺たちは腹ごなしに散歩に出かけた。
行き先は、家の裏手にある小さな小川だ。
かつてサクラコが一人で遊んでいたというその場所は、木漏れ日が揺れる秘密基地のような空間だった。
「見て見て! 魚がいるよ!」
「おっ、ハヤかな。水が綺麗だからな」
俺たちは靴を脱いで、冷たい水に足を浸した。
ひんやりとした感触が、心地よい刺激となって伝わってくる。
アリスも喜んで水しぶきを上げ、黒ヤギは川辺の草を夢中で食べている。
「……ねぇ、赤ちゃんが生まれたらさ、ここにも連れてこようよ」
サクラコが、水面を見つめながら言った。
「私が、川遊びもお花の冠の作り方も、全部教えてあげるから」
「あぁ、頼もしいお姉ちゃんだな」
「ふふっ、サクラコ先生、よろしくお願いしますね」
ほなみが笑うと、サクラコは照れくさそうに、でも誇らしげに胸を張った。
◇
夕暮れ時。
家に帰り、縁側で並んで座りながら、沈みゆく夕日を眺める。
空が茜色から群青色へとグラデーションを変えていく様は、何度見ても飽きない。
「……明日は、また忙しくなるな」
「はい。予約もいっぱいですし、気合を入れないと」
「でも、今日たっぷり休んだから大丈夫! 明日も世界一の笑顔で接客しちゃうよ!」
サクラコが拳を突き上げる。
俺もつられて笑った。
店も大切だ。仕事も大切だ。
でも、俺たちの土台にあるのは、この「何気ない休日」なのだ。
家族で笑い合い、何もしない時間を共有する。
それさえあれば、どんな忙しさも、どんなトラブルも乗り越えていける。
「よし、晩飯にするか。今日は俺が作るよ」
「えっ、本当!? じゃあリクエスト! オムライス!」
「はいよ。ふわとろにしてやるから待ってろ」
俺は立ち上がり、台所へと向かった。
背中に感じる家族の気配と、深呼吸した後のような清々しい気持ちを抱いて。
明日は月曜日。また新しい一週間が始まる。
でも今はまだ、この穏やかな休日の余韻に浸っていたかった。




