二組の、龍と魚と②
二年半ぶりの故郷は寒かった。西の国は砂漠がより近いせいか常に熱く、すっかり西の国の露出度が高い服に慣れていたが、船室を出て桟橋へ降りるなり冷たい強風に煽られ、アリアは薄着のまま外に出た事を後悔した。
「アルス、やっぱり寒いから、着替えてくる」
アリアは手で腕をさすりながらもう一度船室に戻ると、着慣れた襦裙に着替えようとして、
「アリア、何をしているの?」
母親に止められた。
「お母様、寒いから襦裙に着替えようと思って」
「駄目よ。あなたは西の国の姫として太上皇陛下に嫁ぐのよ。西の国の衣装を着ていなさい」
「だって、寒いの」
「帝国は真冬だから仕方がないわ。すぐ馬車に乗るから、少しの我慢よ。そうだ、これを着て行きなさい」
アイシャは娘の体に毛皮の外套を着せた。今年十九歳になる娘は、二年半前にこの帝国を出発した時よりも少し背が伸び、少女から女性へと体つきも成長していた。西の国の女服は、胸元が大きく開き生地も薄い。服の上からでもその体つきがよく分かる。
二年半前も充分美しい娘だったが、そこに色気も増したと思うのは母親の欲目だろうかと考えていると、その娘は子供の様に、
「あったかい!」
毛皮の外套を喜んでいる。そんな娘にアイシャは微笑みながら、
「お兄様が持たしてくれたのよ。忘れていたわ」
「アルスの分もあるの?」
「ええ」
「こんな高価な物、伯父様にお礼をしないと」
「いいのよ。お兄様は今回、あなたが嫁ぐ条件として無理難題を帝国に要求していてから」
「無理難題………」
「それにしても、太上皇陛下はさすがね。南の蛮族の討伐を半年以内で終結させるなんて。私も過去三回、海上から攻めた事があるけれどうまくいかなかったのに………悔しいわね。一度剣で手合せをお願いしようかしら」
「お母様っ」
猛者と名高い女将軍の母親に、アリアが顔色を変える。
「そんな顔しないで。娘の大事な人をどうこうしようと思わないから」
「本当に?」
「本当よ。さあ、馬車の用意が出来たようだから行きましょう」
アイシャと共に再び桟橋へ降りると、アルスが、
「姉さん、僕も寒いっ。あ、その毛皮いいな」
「あなたの分もお母様が持っているわ」
アルスは母親から毛皮を受けとり、
「これいいね。あったかいよ!」
喜ぶアルスは今年十七歳になるが、今ではアリアより頭一つ背が伸び、体の厚みも増していた。しかしまだ少年っぽさは抜けず、伸ばした髪のせいかどこか中性的な雰囲気を感じさせる青年になっていた。
そんな姉と弟が並んで桟橋に立っていると、港に集まっていた民衆から、
「綺麗な姉弟きょうだいだね」
「昔より綺麗になってる」
「あれが昇魚屋の娘と息子か」
「うちの息子の嫁にしとけばよかった」
などと、声が聞こえてきた。
アリアとアルスは気恥ずかしさに急いで箱型馬車に乗り込んだ。
「お母様、もうすぐ宮殿へ行くの?」
隣に座る母親に問いかけると、
「そうよ。婚儀はしない事になっているけれど、一応儀礼的な事はあるわ」
「儀礼的な事?」
「歴代皇帝が眠る墳墓への挨拶と、アリアが太上皇の后として後宮入りする為の儀式があるわ。儀式と言っても、後宮内を正装して練り歩くだけだから。あともちろん、皇帝陛下への挨拶もあるわよ」
「………」
母親の話に、娘はあからさまに残念そうな顔をした。
「すぐ慶嘉様にお会いできると思っていたのに」
「一国の姫が他国の太上皇へ嫁ぐのよ。これでもかなり簡略したのよ? 普通なら、まず結納の儀があって、婚儀があって、その前に準備もあるから、十年以上かかるわ」
「十年!」
「それをたった一、二年で進めて、その上婚儀もしないんですもの。十分早いわよ」
「慶嘉様は既に皇帝位を退位された方だし、私はずっと商店の娘として育ったんだから、派手な事はしたくないの」
「でも、私は娘の晴れ姿を見たかったわ」
「だったら、お母様がお父様と婚儀を挙げればいいわ。してないでしょう?」
その提案に、
「それはいいわね。今からでもしようかしら」
「お母様とお父様が婚儀を西の国で挙げる事になったら、私も慶嘉様と一緒に参列しに行けるかな?」
「それは名案だわ。そうすればお父様の事をお兄様もお認めになるでしょうし」
父親である瑜ゆ燈昇とうしょうは、今以て西の国の王であるアイシャの兄にアイシャとの関係を認められず、今回同行も出来なかった。
向かい合わせの席に座るアルスが、
「どうして伯父様は父さんと母さんの事を許してくださらないのかな」
「お兄様は私をもっと西にある国に嫁がせようとしていたの。でもそれを断って女将軍としてお兄様の統治をお手伝いしていたから、お兄様は私の事を嫁にも行かず国と自分の為に尽くしてくれていると感謝してくださっていたのよね。でも実は帝国に夫がいて子供いると知って、大激怒されて………」
「僕と姉さんの事はすごく歓迎してくださったのにね」
「二人の事はすごく喜んでくれたわ。ただ、お父様の事は………でもまあ、最近はお父様の商人としての手腕は認めてくださって、他国との貿易をお任せになっているから、もう少しかなと思うけどね」
親子三人でそんな会話をしていると馬車が止まった。
「宮殿に到着しました」
アイシャの副官である強面の男が馬車の扉を開けてくれた。馬車を下りると、深々と頭を下げる初老の男性が出迎えてくれた。胸元に龍の刺繍が入った黒の袍と袴を着て、白髪交じりの頭には冠をつけている。
「侍従長を務めまする箔敦観と申します。ようこそお越しくださいました」
「ソリュシュエレンのアイシャ・ムフタールだ。皇帝陛下へ謁見を申し込む」
「皇帝陛下は既に広間で皆様方をお持ちでございます。わたくしがご案内いたします」
箔敦観は頭を上げ、アリアとアルスに視線を向けると、
「お帰りなさいませ」
とまた頭を下げた。その言葉が嬉しくて、
「アリアです。よろしくお願いいます」
「アルスです。お願いします」
と返すと、箔敦観は皺のある顔を綻ばせ、
「お二方に直接拝謁するのは初めてですが、両陛下からお話は伺っております。どうぞよろしくお願いいたしまする」
箔敦観の案内で宮殿を進み、
「こちらでございます」
その広間の二枚扉は、人の背丈の倍以上ある大きな物だった。扉の前でアリアとアルスは毛皮の外套を脱ぎ身なりを整えた。扉が手前に開かれ、
「ソリュシュエレンの王女アイシャ・ムフタール殿下、ご息女アリア殿下、ご子息アルス殿下、お連れいたしました」
箔敦観の声が広間に響き渡った。緊張した面持ちでアイシャの後に続いたアリアは、広間に入るなり、左右に居並ぶ明らかに高位と分かる人々に驚いた。全員が胸に龍の刺繍が施された黒色の上衣下裳姿で、それぞれ形の違う冠をつけている。
赤い絨毯が引かれた先を進むと、一段高い場所に置かれた椅子に皇帝、隆綜藍が座していた。皇帝はひときわ刺繍の華やかな黒の上衣下裳に、大きな冠をつけている。
皇帝の正面で片膝をついたアイシャの後ろで、アリアは膝立ちに両腕を広げて頭を下げ、アルスアルスは母と同じように片膝を付き頭を下げた。西の国の作法である。
「謁見をお許しいただき恐悦至極にございます。ソリュシュエレンのアイシャ・ムフタール、後ろに控えますのは、我が娘のアリア、息子のアルスでございます」
「遠路はるばるようこそお越しくださった、アイシャ殿下。それに、アリア殿下にアルス殿下も。先の書状は受け取っている。ソリュシュエレン国王には、我が帝国の太上皇とアリア殿下の婚姻をお許しいただき感謝している」
「太上皇陛下はどちらへ?」
広間に姿がなかった。
「皇帝陵で行う祭儀の準備をしている。此度は婚儀は執り行わないが、事前にお知らせした通り、皇帝陵での祭儀、また後宮入りの儀は行わなければならない。祭儀は明日から行う予定だ。今日は疲れもあるだろう。ゆるりと休んでほしい。侍従長」
呼ばれて箔敦観が進み出た。
「客殿へ案内を」
「かしこまりました」
そうして広間を出ると、長い回廊を進み、案内されたのは後宮とは反対側にある宮だった。
「こちらでございます。皆様のお荷物は既に運び終えてございます。お付の方々は隣接された宮にお通しいたしました。西の国のお言葉を使える女官が控えております。今宵は皇帝陛下主催の宴席が設けられておりますので、お時間なりましたらお迎えに参ります」
箔敦観はアルスに顔を向け、
「アルス殿下には、皇帝陛下のご指示で別宮をご用意いたしました。ご案内いたします」
しかしアルスは、
「僕もここがいいな。姉さんに付き添っていたいし。祭儀が終わるまでここにいていいか、皇帝陛下に伺っていただけますか?」
にっこり笑って拒否した。箔敦観は何も言わずに一礼して下がっていった。
「アルス、いいの?」
「いいのいいの。姉さんの側にいたいのは本当だし」
「でもあなた、皇帝陛下の侍従になるんでしょう?」
「その予定だけど、具体的にどうするか聞いてないんだよね。母さん、僕ってどうなるの?」
自分の事なのにここまで来て何も知らない息子に呆れつつ、アイシャは、
「侍従ではなくて、帝国に留学、という形よ」
「留学? そうなの?」
「さすがに一国の王子が他国の皇帝の侍従になるのは、お兄様が許さなかったの。妥協案として、アルスは帝国に留学し、そのまま皇帝陛下の元でお世話になりながらソリュシュエレンと帝国の外交に携わる事になるわ」
「外交って言っても、僕、西の国の言葉苦手なんだけどなあ」
そんなアルスの背を叩き、
「ほら、荷ほどきしましょう。お母様、もう襦裙に着替えていい?」
「祭儀が終わるまでは駄目」
「でも寒いわ!」
アイシャは女官に命じ、火鉢を持ってきもらった。温かい部屋で荷物を整理していると、箔敦観が現れ、
「皇帝陛下よりご伝言です」
アルスの耳元で何かを伝え、それにアルスが何かを答え、箔敦観は頷いて戻って行った。
「アルス、どうしたの?」
「藍華が来いってうるさいから、嫌だって答えた」
帝国の皇帝に対しうるさいと言ってのける弟に、アリアは、
「皇帝陛下と、お手紙とか、やり取りはしていたのよね?」
「たまに返事は書いてたけど」
「たまに………」
「だって、しょっちゅう送ってくるんだもん。毎回返事できないよ。それにさ、女遊びするなとか、変な男の誘いには乗るなとか、毎回しつこく書いてあって、いちいち返事しても意味ないでしょ?」
「………そうね」
「さっきもさ、別宮を用意してあるって言ってたけど、結局藍華の部屋の事だったんだ。だからうるさいって返事してもらった」
皇帝の弟への感情に変化はないようである。アリアは二年半前と変わらぬ複雑な心境で弟を見つめた。
やがて日が沈み始めた頃箔敦観が訪れ、
「宴席へご案内いたします」
箔敦観にアリアは、
「あの、太上皇陛下もご臨席されるのでしょうか?」
「太上皇陛下におかれましては、まだ皇帝陵からお戻りではございません」
「そう、ですか」
肩を落とすアリアに、
「姉さん、もうすぐ会えるよ」
「ありがとう、アルス」
弟に慰められ、アリアは頷きながらも、
「早く、お会いしたいわ」
小さく小さく呟いた。




