004 転封騒ぎについて
津軽藩に転封の危機ってのがあったの知ってます?
1619年6月に、幕府は、福島正則に津軽4万5000石への転封と蟄居を命じて、玉突き的に津軽家に信濃国川中島藩10万石への転封を命じる内示を出したんだって。
結局は、津軽はそのままで、福島正則が津軽じゃなくて、川中島に転封ということになったんだけどね。
で、史実的には、この転封撤回の交渉で満天姫大活躍!ということでさ。さすがは徳川のお姫さま!って感じに描かれてることが多いみたい。
そりゃあ、「あの」福島正則絡みだし、もちろん満天姫は激怒したかもしれないんだけどね。
時系列を追うと──
6月2日、幕府から福島正則に、安芸・備後50万石の没収を言い渡される。(転封先は津軽と仄めかされる?)
6月8日、江戸にいた佐竹義宣が、国元(秋田)の留守居役に宛てた手紙の中で「福島正則の津軽への国替が決まった」と明記する。
6月10日、京都にいた梅津政景が「福島正則が津軽へ転封になること」を日記に書き留める。
6月21日、江戸にいた信枚が、国元(津軽)の家臣に対して「福島の津軽への下向と、自分たちの越後へ転封」という幕府の指示を伝える書状を送る。
7月1日、福島の津軽転封が中止になったという一報が津軽に届く。
7月2日、福島正則に、転封先を「信濃国川中島(高井郡)」へと変更する幕府公式命令書が下される。
という感じ。
幕府が信枚に内示してから、信枚が手紙を出すまでに何日かかったか分からないけど、6月2日から21日の間なのは間違いない。
佐竹よりは前に教えてもらってたとすれば6月8日よりも前なんだけどさ。
案外、信枚だけ蚊帳の外ってのもありそうで、知ってからすぐに、慌てて手紙送ったなら、6月20日とか?
さすがに、それはないかな?まあいいやん。わからんから、おもろい方にしときましょ。
江戸から津軽まで、普通は20日かかるけど、まあ、早馬を乗り継いだとすれば、1週間ぐらいで行けるかなぁ?
ということは、6月21日に江戸から手紙だして、津軽に届くのは6月28日ぐらい?
で、7月1日に転封中止の第一報が津軽に届くわけよ。なにやってんだ?って思わん?
つまり、中止の一報は6月23日とか24日に江戸を出た感じでしょ?
早馬の人も馬も、大変だよねー
んで、満天姫大活躍についての違和感の話なんだけどね……いえ、史実は史実だから、大活躍したことに異論はないです。ハイ。
でもね。
やっぱ、これだけのスピード感には、違和感しかないよね?
しかも、そもそもの話、津軽って土地は、北の要所で、蝦夷地からの防衛とか、伊達藩に対する北からのプレッシャーというような重要な土地なんだよね。
確かに辺境の地ではあるけどさ……
まあ、重要な要所だから、操りやすい信枚に託して、破格の五層五階建て天守閣を許したわけだよね。史実としては、そういうことになってるよね?
普通に考えたら、そんな重要なとこを、賤ヶ岳の七本槍一番手の福島正則に任せようなんてしないでしょ?
秋田の佐竹とか、伊達とか、豊臣恩顧勢と集結して手を組まれたりしたら、目も当てられないやん?
しかも、福島正則と満天姫との因縁だって、幕府も知らんわけじゃないでしょ?
まあ、そういうわけで、秀忠も、天海も、孝蔵主も、満天姫も、みんな(信枚くんを除く)が知ってた出来レースって考えるのが、自然だと思わない?
とりあえず、福島正則には、すんなり広島を明け渡して貰わなきゃいけないから、立派なお城があって、面積的には大きな独立領・津軽をチラつかせておいてさ。
んで、後から撤回するわけよ。まあ、伊達藩にやった「百万石のお墨付き」みたいなもんじゃない?
もちろん、信義が生まれたばっかりの津軽藩に対しても、親幕府体制の確認なのか、牽制なのか、あるいは、大活躍する満天姫に対する津軽藩内での評価アップのためなのか、なにかしら意図はあったんだろうね。
弘前城(高岡城)では、案外、服部康成あたりが全部見抜いてて、知らせを受けて表向き慌てたフリしながら、家臣たちにはうまく指示出ししてたかもね。
「まだカネは使うな。適当に書類だけ作っておけ」とかさ。
というわけで、数日間とはいえ、ひとり粟食って手紙をかいたり、金策に駆けずり回っちゃう信枚くんは、かあぁいいねー
(つづく?
というか、まだ書きかけ?
適宜、書き足すかも?
今回は割とみじかい……)
あとがき
どうも筆者です(^^)/'
とりあえず、いろいろ考えたり、調べたりしてること、書いちゃってることをバラバラでもなんでもいいから、書いて残しておこっていうコーナーです。
なんかツッコミどころがあれば、いろいろ教えてください。
もしよろしければ、今後ともご愛顧のほど、何卒、どうぞよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m




