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002 汚れ役・乾安儔

乾安儔って知ってます?


「儔」なんて、割と難しい漢字を使うので、なんて読むんだろう?って感じですよね。「儔」っていう字は、訓読みだと「ともがら」って読むみたいで、意味としては、「仲間」という意味だそうです。


人名なので漢字の意味に意味があるのかどうか分からんですが、「乾」が苗字、「安儔」が名前で、「いぬい やすとも」と読むらしいです。こういう読みって、そう呼んでたという証拠があるわけでもないみたいだけどね。


さて、さっそくの脱線なわけだけど……


乾安儔(いぬい やすとも)というのは、津軽藩2代藩主・信枚のころの津軽藩の重臣(家老)なんだけど、たぶん、ほとんど誰も知らないよね?


いろいろ調べてると、あれ?って思う疑問とかもあったりするんだけど、解釈によっては……


 めっちゃカッコいい!


ということが分かって、夢中になっちゃってます。


安儔の名前が歴史に登場するのは津軽騒動(1608-1609)から。たぶん、安儔は30代後半ぐらいだと思う。


初代為信が1607年12月に亡くなって、二代信枚は江戸を経由して津軽には1608年の春に戻るんだけど、そうすんなりとは藩主になれないんだよね。


当時、数えで23歳の新米藩主に対する軽視や、本来家督相続するはずだった長兄・信建(1607年没)の遺児・熊千代(当時、数えで9歳)を担ぐ一派と争うことになるわけよ。


熊千代を担いだのは、津軽建広(為信の長女の婿)、一戸兵庫之助(熊千代の母の父)、一戸清三郎(兵庫之助の長男)という感じ。


まあ、一戸の気持ちは分からんでもない。藩主の長男に嫁がせたのに、急に三男が出てきて家督を掻っ攫っちゃうのはさすがに許せんよね?


もちろん、為信の長男・信建も優秀だったみたいだし、信建を慕う古参勢も大勢いたはずだよね。


建広もたぶん、信建への忠義で熊千代に加担するしかなかったと思うけど、さすがに、ちゃんと情勢は見えてたと思う。その後の立ち回りなんか見てるとね。


信建は西軍についた武将だし、その子を後継にってのは、さすがに幕府は許さんでしょ? しかも、信枚は家康のお気に入りだし。津軽に帰る前には家康にも秀忠にも挨拶していったわけだしさ。


というわけで、ちゃんと情勢が見えてる人は信枚についたと思うんだ。


その時に、信枚側についたのが、服部康成(幕府からの付家老)、松野大学、高坂蔵人、乾安儔って感じ。たぶん、杉山源吾(石田重成、石田三成の次男)もだろうけど。


1608年の後半に建広は熊千代を連れて幕府に直訴にいくんだよね。上手いこと戦地から逃れてロビー活動って感じ。


1609年1月に幕府の裁定が下りて信枚が藩主になって、一戸一派を粛正するわけよ。


相手の主力は、一戸清三郎なんだけど、乾安儔は「酒でも飲もうぜ」って自宅に招いて、討伐しちゃう。騙し討ちってやつね。


一戸兵庫之助とかは、岩木山麓に追い込まれて、西目屋あたりの古い砦(村市館)に立て篭もって、春の雪解けのぬかるみの中は攻めて来ないだろと油断してたところに松野大学が突撃して殲滅。


建広の配下は、建広の居城・大光寺城に立て篭もったけど、逃げたり降伏したり高坂蔵人に討ち取られたりって感じかな?


逃げたり降伏したりした人たちは、生き延びて幕府典医になる建広のとこに合流したのかな?少なくとも、建広の奥方(為信長女の富子)や子供たちは合流してるみたい。


だいぶ乾安儔から逸れちゃったけど、とにかく、安儔は「卑怯」とも言われかねない感じで一戸清三郎を討ち取ったというのが彼の歴史上での登場なわけです。


んで、次のシーンが高坂蔵人の乱(1612)。高坂蔵人はこの津軽騒動の功績で増長しちゃったと言われているらしい。


構図としては、新城(今の弘前城、1611年完成)を作ったり、新しい町割り(家臣の屋敷の再配置)とか、俸禄制への移行とか、服部康成などの幕府寄り新参の高待遇とかに不満のあった古参勢の反乱なんだろうね。


もちろん、もともと津軽家は豊臣恩顧の大名だから、古参勢は豊臣寄りなわけよ。


もしかすると、せっかく作った新城に豊臣のお姫様である辰姫(1610年輿入れ)が入らせて貰えなかったことなんかも、間接的には引き金になってるかもね。


そういう動きはあっさりと露見してて、というか、そうとう目に見えて不満を表してたんだろうけど、これはヤバいって、高坂蔵人とかは南部藩に亡命しようとするんだよね。


高坂蔵人は重臣だからさ、できたばっかりの新城の抜け道とかなにからヤバい情報を持ってるわけよ。敵国・南部藩なんかに逃すわけにはいかないよね?


というわけで、再び、乾安儔の登場です。


高坂蔵人が高岡城(弘前城)に登城して丸腰のところを、あらかじめ仲間4人を周りに伏せておいて、5人で一斉に切り掛かって討伐したんだそうな。いやー、怖いよねー。


一戸清三郎騙し討ちもそうだし、手段を選ばぬ暗殺者って感じなんだけどね。まあ、今と当時じゃあ、その辺の感覚は違うんだろうけど、それにしてもねえ……


で、こっから、大坂の陣(1614, 1615)周辺での簡単な記録、1619年4月の秋田藩との外交文書のやり取りぐらいがあって、次に歴史に登場するのは、1623年1月の鉄砲射撃の心得(軍事統制)の発令まで、わりと動きがないんですよ。


この間は、松野大学が新田開発とかを盛んにやってた記録が残ってる。表に出られない杉山源吾(石田重成)とタッグを組んでたんだろうなぁと想像できちゃう。


1612年後半から1622年(1623年1月発令まで)の間、乾安儔の記録が極端に少なくなって、1623年以降に急に増えるんだよね。この間、なにしてたと思います?


まあ、勘の良い方はお気付きですよね。1613年満天姫輿入れとは……


私はあんまり関係ないと思う。それだと、1623年からの再登場には説明が足りないと思う。


辰姫が上野大舘に引っ越すのが、1612年後半から1613年初くらい。そして、1619年1月に長男・平蔵(信義)を産み、1623年7月に亡くなる。一応、3月に亡くなったという説もあるらしいけど、7月が有力らしい。


1623年7月というと三代将軍・家光の上洛の時期(1623年6月〜閏8月)のど真ん中で、随伴してた信枚は辰姫の最期を見取れなかったんだ……と思うと、かなり切ない(T_T)


--(追記)--

大舘の東楊寺にあるお墓には、3月19日って刻まれてるって、写真があった!

(2026年9月閲覧、https://tigerdream-no.blog.jp/archives/75659608.html)

(弘前の貞昌寺にあるお墓には、7月25日と刻まれてるらしい)


そりゃ、地元大舘の方が信憑性ありそうやん? 実際に亡くなったのが3月で、失意のままに京都に行って、近江の天海師匠に泣きついた感じかな?で、幕府の手前とか、いろいろあって、建前としての命日を7月にして弘前にお墓を作って幕府に報告する感じ? いや、そういう説も、それなりに有力らしい。


しかし、京都往復の道中付き添ってた安儔は、大変そうやなぁー。

--(追記おしまい)--


いや、だから、安儔!


1612年後半から1623年まで姿を見せないって、もしかして……って思わない?


いや、もちろん、ずっと大舘にいたとか思ってるわけじゃないよ? 基本は江戸藩邸かもしれないし、津軽にも時々は戻んなきゃね。


津軽には、基本は服部康成がいるし、松野大学とか、それから、ゴッドマザー阿保良もいるし、まあ、安儔いなくても大丈夫でしょ? 満天姫は家康の亡くなった1616年から子を産んだとされる1620年かその翌年くらいまでは江戸藩邸かなぁ?


まあ、とりあえず、乾安儔が極秘任務で、辰姫警護の責任者だったとして、基本は江戸藩邸、頻繁に大舘、たまに津軽へというような動きをしてたとすれば、なかなか公式記録には残しにくいよね?


しかも唯一といっていい記録「1619年4月に秋田藩」って、長男誕生を津軽に報告に行く途中とか?帰りかも?


1623年1月ってのは、辰姫の容体になにかあって、信枚の名代として正月行事のために津軽に戻ってたとか? 辰姫3月没説をとるなら、かなりありそう。


7月没だとしたって、容体は芳しくなかっただろうし、信枚は大舘に入り浸ってたかも?いや、そんなに暇じゃあないだろうけど。


1623年閏8月26日付けの大津の商人からの借銀証文に署名してるから、乾安儔も信枚とともに京都に行ってる。


京都で訃報を聞くんだろうか?高台院(ねね義母さん)になんていうのかな?信枚はパニックで、それどころじゃないかも?


天海僧正もこのとき近江で日吉東照宮を創建してたらしいから、こっちにも泣きついたみたいだね。「もう藩主やめる!」と言ったとかなんとか……


安儔は、たぶん、黙って信枚に付き従って、もしかすると辰姫の葬儀費用とかを大津の商人から借りるとか、実務を担当したんじゃないかな?


その後の信枚は、一応、天海僧正の説得もあってか藩主は続けるんだけど、すっかり茫然自失、もぬけの殻状態だったみたいです。


青森港開発とかの実務は家臣に丸投げですね。松野大学が引退して、その辺の表の顔として乾安儔が出てきますね。相変わらず裏に杉山源吾の顔が見えそうな開発内容ですけど。


信枚がやったのは、「虚空蔵求聞持法」荒行。100日間にわたり、毎日1万回(計100万回)も真言を唱え続ける密教の究極の荒行です。一言でも間違えれば最初からやり直しなんだそうな。


「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか(南無 阿迦舎 惹羅婆野 唵 阿里迦 末哩暮哩 娑婆訶)」


これを1日1万回ですからね。1回に2秒として2万秒、約6時間かかります。これを100日間。発狂して死ぬ人もいるんだとか。


これを真冬の岩木山麓に穴掘って、そこで毎日毎日、手順に沿って唱えたらしい。マジか?って思うよね。


最終日の100日目は、日食か月食の日になるように計画的にやらないといけなくて、計画が狂ったら、次の機会を待ってやり直しという感じらしい。


信枚がやろうとした時、寿命を10年縮めることになるからやめてくださいと、周りから必死で止められたらしい。


信枚の言葉──


「子孫下民のためには、寿命10年を縮めても苦しからず」


──って……


「子孫下民のため」なんて、ぜってー、んなこと言ってないって。いや、言ったかもしれません。失礼しました。言いました。それが史実です。


でもさ……「一刻も早く辰姫のとこに行きたい」が本音だったんじゃないかなぁ?


1626年1月30日(旧暦)が日食だから、その100日前というと……1625年10月20日(旧暦)にスタートしたみたい。


安儔は、それも黙って見守ってると思う。そして、信枚がやり切ったあと、あちこちに寺院を建てて行く実務をサポートするんだ。


1631年、信枚は江戸藩邸で燃え尽きるように亡くなったとされている。


満天姫の活躍もあり、3代信義が数え13歳で藩主になる。信枚の遺言があったかどうかは知らないけど、安儔は側近として信義を支えるんだ。


そして、いよいよクライマックスの船橋騒動(1634〜1636年)です。


信義は江戸育ち。家光の小姓もやった。都会派風流人……といえば聞こえはいいけど、田舎の家人たちから見たら、派手に遊びまくる放蕩者だったのかな?


という見せ方で幕府には侮らせておいて、という意図があったかどうかは知らないけど、とにかく、父・信枚同様に改革者だったと思う。


父・信枚は、戦国気質を藩から一掃して武治から文治への道を切り拓いた。信義は、既得権益層を一掃して、中央集権体制を作った。


船橋騒動は、必要な改革をするための古参の既得権益層の粛正劇だったと思うよ。本気で止めなきゃって思ってたら服部康成だって中立なんて決め込んでないし、満天母さんだって諌めるでしょ。


信義は若くてちょっとやり過ぎちゃって、結局、古参の既得権益層だけじゃなくて、新参の改革支持派の船橋とか、最後までやんちゃに付き合ってくれた乾安儔も巻き込んじゃった。


信義にも責任の一端はあるはずだと思うけど、全ての罪を安儔が被ってくれて、信義は助かった。津軽家も無事に存続。新参も処分されたけど、狙いだった古参守旧派も粛正できた。


乾安儔の去り方がとにかくカッコいい。


当時50代かな?60歳超えてるかな?いずれにしても、当時としては、まあまあ高齢だね。


古き武人は、役割を終えたら何も言わず静かに去るのみ。


あとのことは、信義や信英のコンビに任す。


もちろん、安儔は、満天姫の過去の広島での凄惨な体験も知ってる。


信義や信英、そして、久太郎(のちの乾安俊!)が、それを耳にタコができるほどに聞かされて育ったことも知ってる。


彼らが家督争いをすることは、絶対にない。津軽藩に憂いはない。そう信じていたと思う。


乾安儔は伊予松山藩・松平定行の預かりとなる。松平だよ?えっ!?だよね? 実は満天姫のいとこなんだよねー


乾家はお取り潰しになるけど、安儔には連座になる子供はいなかったし、安儔自身の伊予での暮らしは、家老格としてかなり上級の暮らしだったらしい。


しかも、乾家は、その後、ほとぼりが冷めてから、遅くとも1641年までには再興して、幕末まで存続する名家になる。復興したのが、信枚の子・久太郎、乾安俊と名乗った。


いまも残る乾家の家系図には、乾安儔の子として、安俊の名前が連なっている。


没年不明なんだけど、船橋騒動から5年以内なら、安儔は生きてるだろう。その報を聞いて、安儔は嬉しかっただろうなぁ……


---


安儔は信枚が大好きだったんじゃないかと思う。


信枚の平和を愛し、みんな仲良く、全てを融和させようという思想。


敵のはずの熊千代や建広を生かすために天海や家康まで動かしちゃう。


1608年の津軽騒動の時に、安儔はそういう信枚の本質、融和の理想を感じたんじゃないかな。


だから、信枚に、信枚の理想に、残りの生涯を捧げると決意し、戦国の武人らしく忠義を尽くした。


「みんなを生かしたい」、すべてを融和させるという信枚の理想は、誰かがどこかで、絶対に表に出せない泥を被り、血を流さなければ成立しない。


武人の自分に出来ることから……信枚に代わって自ら手を汚して粛正劇の主役をはった。


信枚の愛する辰姫を守り、その子・信義を守り、辰姫の死後に茫然自失の世捨て人となった信枚に寄り添って、実務を支えた。


最後は信義の盾となり、全ての泥を被って伊予に去った。



ね? めっちゃカッコいいやん!


---


とりあえず、史実の時系列(乾安儔関連+α)


1608-1609年 津軽騒動 一戸清三郎を騙し討ち

1610年 辰姫、信枚に輿入れ

1612年3月 高坂蔵人の乱 高坂蔵人を騙し討ち

1612年-1613年 辰姫、上野大舘入り

1613年 満天姫、信枚に輿入れ

1619年1月 信義誕生

1619年4月 秋田藩梅津政景らと外交文書を交わす

1623年 鉄砲射撃の心得(軍事統制)の発令

1623年 辰姫逝去

1623年閏8月 大津の商人からの借銀証文に署名

1625年 青森港の開港(行政責任者)

1628年 百沢寺(現・岩木山神社)の山門の作事奉行

1629年 長勝寺の三門の作事奉行

1631年 信枚逝去

1634-1636年 船橋騒動 新鋭派トップとして処分され、伊予に流罪

1638年 満天姫逝去

1641年までに、乾家を安俊が再興


(つづく?

というか、まだ書きかけ?

適宜、書き足すかも?

にしても、相変わらず、長くなった……)


あとがき


どうも筆者です(^^)/'


とりあえず、いろいろ考えたり、調べたりしてること、書いちゃってることをバラバラでもなんでもいいから、書いて残しておこっていうコーナーです。


なんかツッコミどころがあれば、いろいろ教えてください。


もしよろしければ、今後ともご愛顧のほど、何卒、どうぞよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m


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