001 信枚と家康の関係性
信枚は1600年の関ヶ原の戦いで、家康の近習として本陣にいたんだよね。
当時は衆道っていってたけど、現代的には男色とか、ヤヲイとか、BLとかって、かなり変な目で見られちゃうわけだけどさ。当時は違ったんだよね。
だって、一番無防備になる寝所で刀持ったまま語らい、枕元に刀置いて寝ちゃうんだよ? 普通に考えても怖くない?
しかも、信枚の津軽家はそもそも豊臣方だし、信枚の兄貴の信建なんかは、1600年は西軍について戦ってる最中なんだよ?
深謀遠慮のタヌキ、というと良く(?)言い過ぎだけど、要するに「臆病な」家康が、よく信枚をそんなポジションに置いたなって思わない? よっぽどの信頼関係ができてないと無理だと思うんだ。
現代の人間の関係性で、それに近いのは夫婦関係ぐらいかな?って思うとさ。いや、いろいろな打算もあったり、夫婦もいろいろだけどね。
江戸時代の平和な頃には割とレジャーに変わっちゃうわけだけど、戦国時代の衆道ってのは、すげぇマジな命懸けの信頼関係の証だったんだろうなって思う。
と、相変わらず、いろいろ前置きが長くなってるんだけど……
この1600年の信枚が家康からなにを感じ取ったのか? 家康は信枚になにを感じたのか?ってのを少し書いてみたい。
こういう特別な関係性がないと、その後の津軽藩のある意味「特別扱い」に説明がつかない気がするし、逆に、そういう関係性があったからと考えると腑に落ちることが多すぎる。
たぶん、衆道(男色)を発端とするそういう解説や解釈って、現代ではなかなか説明しづらいし、理解されづらいと思う。でも、当時の戦国武将たちを語る上では、絶対に外せない要素だと思う。
あ、だからといって、そういうシーンは描きませんよ(私には難しすぎて、描けません)。まあ、その辺、お好きな皆さんは、いろいろ妄想してくださいませ。
と、なかなか本題に入れないのが、私の文章の特徴(笑)
それで、どんな語らいがあったんでしょうねぇ?
そういえば、某所の本編では──
(以下は、アマミ(モデルは天海僧正)とノブ(モデルは信枚)の会話。イエアーストリッヒ陛下(アスト様)のモデルが家康)
「オンシ、陛下に鉄砲の話をしたのを覚えておるか?」
「え?鉄砲の話?いや、急になんの話?」
「9年前の大戦の折、オンシは陛下の陣中でお側に侍っておったそうじゃの」
「うん。確かに、陣中でアスト様とはいろんな話をしたけど……鉄砲ねぇ……そんな話題あったかな?」
「やはり、無意識だったようじゃな。しかし、『アスト様』呼びとは……その当時、イエアーストリッヒ陛下のことを『常に、どっしりと構えていて、すごい』と評したそうだな」
「あー、なんか、そんなはなししたこと、あったかも?」
たしか……
『俺だったら、思わず、「早よせい!」って、後ろから鉄砲うっちゃってたかも。あはは』
とか軽口たたいたら、めっちゃ睨まれて怖かったの覚えてるわ。その後しばらく、くちをきいてもらえなかったもんな。
「ほんとに恐れを知らん奴だな。その件以来、陛下はオンシに一目置いておるそうな」
──なんてこと書いちゃってるなぁ。
純粋な少年(当時数えで16歳、満14〜15才)だった信枚には、恐ろしい殺し合いの戦場で、ドッシリと構えてる家康は、ちょー尊敬できるオトナだったんじゃないかな?
でも、その一方で、きっと、家康から、戦国時代を終わらせて平和の世を作るという理想を聞かされるんだと思う。
理想(平和)の世の中にワクワクすると同時に、目の前の現実(殺戮)とのギャップを肌で感じて、すごい違和感を持ったと思う。
それでも、それが当たり前のように泰然自若としている家康はスゲェって思わない?
しかも、戦況は、西軍を裏切ってこっちにつくことになってる軍勢がモタモタとなかなか寝返ってこない。目の前で敵味方ともに戦死者はでてるし、ハラハラドキドキだよね?
家康だって、やっぱり、内心はちょっとぐらいドキドキだったと思うし、問い鉄砲は史実でないとしても、そんな気分にはなってたかもしれない。
家康は、純粋に尊敬の眼差しで見つめながら、素朴に自分の焦りを半ば代弁する信枚をすごく可愛いって思ったんじゃないかな?
いや、半ば呆れつつ、持ち前の(?)深謀遠慮で信枚の発言の真意をあれこれ読みまくったかもしれない。まあ、いくら読んでも裏はないわけだけどね。
ともかく、平和の世をつくるためとはいえ、多くの犠牲者を出すことに何も思わないはずはない。それでも、それを決断して実行してこそのリーダーなんだよね。
もしかしたら、そういう葛藤とか孤独を、いわば弱音みたいなものを、信枚には漏らしたかもしれないね。
信枚は、お家騒動に直面した時に振り返って、ようやく、家康が漏らした弱音の真の意味を理解するんだろうな。
少年・信枚には理解できないけど、偉大な家康でも泣く時があったり、弱音を吐くことがある事実だけで、十分に惹きつけられたんじゃないかな。
家康は、弱音を吐いても、コイツなら理解は……しなくとも、少なくとも自分への尊敬の念を失わないだろう。本当のことで道理が通っていれば、どんなものでも受け入れる、それだけの包容力を持っていると思ったんじゃないかな?
こうして、信枚は、家康から、平和の世という理想と、その実現のためのリーダーが持つべき心構えを学んだんじゃないかな?
家康にとっては、自分の弱さまでをも包み込む信枚の受容力の一端をみて、ただの主従以上の関係性を結ぶんじゃないかな。
こういうのがあったから、家康は、関ヶ原の乱の戦功褒賞として、津軽家にではなく、信枚に官位と2000石の領地(上野大舘)を与える。
1609年の家督相続争い(津軽騒動)の裁定では信枚の家督相続を認めた。しかも、融和の精神から無用な殺し合いを避けたい信枚の真意に寄り添って、反乱の首謀者格であった津軽建広(信枚の姉の婿)や津軽熊千代(信枚の兄の子)に対して寛大な処分を下した。
さらに、石田三成の三女・辰姫(当時の立場は高台院の養女)との婚姻(1610)を認めたし、破格の五層五階建の新城建築(1611)も認めた。
家康は、高坂蔵人の乱(1612)ののち、信枚と再び会う。
家康の理想と現実というのは、いまだ家康がもっとも苦しみ、しかも、いよいよ最終決断をだそうとしているテーマですね(参照:大坂の陣、1614, 1615)。
信枚が、いままさに、それを乗り越えて目の前にいる。しかも、かつて見せた融和の思想と包容力はそのままに。
家康は、自身の策略で傷つけた娘を、信枚に託す。
満天姫輿入れ(1613)
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補足:
満天姫は、広島藩主・福島正則の当時の嫡子・正之に嫁いで離縁されてます。
福島正則といえば、高台院(辰姫の養母)が我が子同然に育てた賤ヶ岳の七本槍の一番手ですからね。
高台院はバカ息子のやらかしに腹を立てつつ、満天姫のことは心配だったでしょう。
当然、信枚も辰姫経由で、それを聞いてると思う。
辰姫だって、自分の立ち位置は分かってるから、新城の奥を取り仕切るに足る信枚の正室が必要なことは分かってるって。そんなの、あったり前やん!
逆に、信枚の方が分かってなくて、辰姫に怒られちゃってるまでありうるでしょ!
コホン
というわけで、信枚は知ってるから、家康に再び弱味を曝けさせないように、皆まで言わせずに、引き受けちゃうと思うんだ。
という感じで……
以下は、一応、家康が満天姫を傷つけたあたりの経緯の補足です。
某所のエッセイには──
(仮説3) 満天姫は、前夫・福島正之の死により心的外傷(PTSD)を発症し、子供を産むことに忌避感を持つようになった。
信枚に輿入れする以前に、満天姫は福島正之(広島藩嫡子)と婚姻関係にあり、男子(直秀)をもうけている。正之は、広島藩主・福島正則の甥(姉の子)だが、男子がいなかった正則の養子となり、広島藩を継ぐ立場であった。
しかし、満天姫が正之に輿入れする前年1598年、正則に実子が誕生している。嫡子・正之の派閥、実子・忠勝の派閥との間には、様々な駆け引きや血みどろの抗争があったことは想像に難くなく、また実際にそうであったとされている。1599年の輿入れ当時、正之15歳、満天姫11歳である。はじめから恋愛関係とまではいかずとも、いわば戦友として連帯感のようなものから、好き嫌いを超えた情愛の仲へと発展していったのだろうと考えられる。
1606年、満天姫は男子を出産する。すなわち、嫡子・正之の次の領主候補である。このままいけば、実子・忠勝へ家督相続する流れは完全に断ち切れることになるため、藩主・正則は非情な手段を講じる。すなわち、正之の幽閉と満天姫の離縁である。表向きは、正之が狂心して乱行を繰り返すためとして、満天姫を家康に返上したのである。
1608年、正之が病死したとの報が満天姫のもとに届く。表向きは病死とされたが、藩主・正則の手による謀殺であることは明らかな状況であった。満天姫は、結果として前夫の死を招くことになった我が子・直秀(当時3歳)に憤りをぶつけるわけにもいかず、侍女・松島(満天姫の元乳母)に慰められながらも、徐々に心を壊していったものと考えられる。
そこで、満天姫に植え付けられたトラウマは、(ア) 家督相続争いはもう嫌だ。(イ) 血縁などというものは争いのもとでしかない。(ウ) 自分の血のつながった子供を産むのはもう嫌だという、血縁への忌避感であった。そして、自分たちが幼く何もできなかった無力感からは、常に先手先手を打って争いの芽がでるのを防ぐことの重要性を深く学んだと考えられる。
このように、満天姫は前夫との婚姻期間中の家督相続に関する諍い、実子・直秀を産んだことによる事態の急変、そして、前夫の死のショックから、PTSDを発症し、大きなトラウマを抱え、自身が子を産むことを拒絶するようになったのではないかという仮説である。
もし、この説が真であれば、満天姫が実子でない辰姫の子の長男・信義を実子として幕府に届け出、将来の津軽藩第3代藩主として確定させたことへの説明となる。特に確証のない説であるが、満天姫の背景を鑑みるに、十分にあり得る話だろうと考える。
──てなことを書いてる。(年齢はすべて数え年)
しかし、1598年に実子・忠勝誕生で、1599年に嫡子・正之へ満天姫輿入れって、家康は、ほんまにタヌキだよねー。家督争い起こさせる気まんまんやん(>_<)
(つづく?
というか、まだ書きかけ?
適宜、書き足すかも?
にしても、長くなった……)
あとがき
どうも筆者です(^^)/'
とりあえず、いろいろ考えたり、調べたりしてること、書いちゃってることをバラバラでもなんでもいいから、書いて残しておこっていうコーナーです。
なんかツッコミどころがあれば、いろいろ教えてください。
もしよろしければ、今後ともご愛顧のほど、何卒、どうぞよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m




