第十話
オペラ鑑賞を終えた私たちは、日暮れを背に朝草劇場を後にした。建物の外に出ると、沈みかけている夕日が身体中に染みた。
日が沈んできていたこともあり、私たちは少し早めの夕食をとる事にした。そうと決めて向かった先は、雪也さんが贔屓にしているという街の定食屋だった。この定食屋を経営しているご夫婦と雪也さんは、仕事とは関係なく私的な交流があり、先ほど商いの合間を縫ってご挨拶をさせていただいた。ご夫婦は雪也さんの結婚が寝耳に水だったようで、2人揃ってびっくりしていた。
(雪也さんは私の爵位が欲しくて結婚を申し出た…なんて、真相は口が裂けても言えないけど。)
夫婦への挨拶を済ませた私たちは、奥の窓際の席に案内された。ここのおすすめは、京之宮湾で獲れた新鮮な魚を使用した焼き魚定食らしく、私は言われるがまま雪也さんと同じ料理を注文した。結婚の前祝いだと言われ、今回の食事代は支払わなくてもいいと言っていただいた。雪也さんと私はご夫婦の厚意に甘えて、今回はご馳走になる事にした。雪也さん曰く、持ちつ持たれつ、こういう時は遠慮しないで受け取っていくのも円滑な人間関係の築き方なんだとか。
注文を終えて一息付いた私たちの話の話題は、先ほど見たあのオペラだった。
「ううううう…ジュリエッタ…エリック…お二人が来世で幸せになることを願っています…。」
「西洋で有名な悲恋の物語といえばこれやな。それにしても、劇で見るとまた違う。俺も心にじーんときたわ。」
「それはそれとしてジュリエッタ役の榎田紅葉様とエリック役の椎名竜彦様の葉書を購入しました。とても嬉しいです。」
「情緒の暴走列車やめえや。混乱するわ。」
今回私たちが観た演劇は、西洋で有名な悲恋”ユートバーグの悲劇”だった。身分の差を理由に結婚を許されなかった男女のお話で、最終的にエリックは処刑され、ジュリエッタは思い出の海にメッセージボトルを流し、崖から身を投げるという話だった。
完全に心を奪われ、感情移入をしてしまった私は、公演が終わる頃には涙と鼻水で前が見えなくなるまでになった。雪也さんが用意してくれた塵紙で顔を整えた後、再び舞台の幕が上がったかと思えば、始まったのは俳優の舞台挨拶だった。私は更に心を奪われ、最終的にジュリエッタ役の榎田紅葉様とエリック役の椎名竜彦様の姿が描かれた葉書を買うに至った。
「雪也さんにはお見苦しい姿をお見せして大変申し訳なく…。」
「いやいや、蜜葉の意外な一面を知れてよかったと思てるで。まさか演劇…オペラがツボやったとは。」
日ノ本の国の伝統的な劇の雰囲気とはまた違い、私はオペラに心を奪われていた。雪也さんに聞いて初めて知ったけど、オペラと似た演劇としてミュージカルというものもあるんだとか。オペラに目を輝かせている私を気にして、彼は『次はミュージカルも一緒に行こな。』と約束してくれた。
本当に、爵位だけが目的の結婚のはずなのに、雪也さんは私に至れり尽くせりで恐縮してしまう。享受のしすぎもよくないとは思うけど、せっかくの彼の厚意を無駄にするのも違うと思う…というのは言い訳っぽく聞こえてしまうかもしれないけど。
相変わらず、雪也さんの真意は分からない。爵位が欲しかったのは本音だと思う。だけど、もっと他に何か意図があるのは確かで、そうじゃなければ没落貴族の娘である私をわざわざ選ぼうなんて思わない。
今更だけど、疑問に疑問が重なっていく。最初は私も”彼が私を利用するなら私も彼を利用するまで!”と強気ではいたけど、現状、私だけが得をしてしまっているような感覚に陥る。病弱だった母は適切な医療を受けて、病状が回復し、近いうちに退院できるまでになった。
(実際は雪也さんに爵位を譲ったから、得をしているのは私だけではないはずなんだけど。)
「蜜葉サ〜ン。さっきから百面相してどないしたん?」
「あ、え、うそ。私何か粗相でも?」
「粗相はないけど、黙りこくって1人でニコニコしたり眉間に皺寄せたり、ちょっと上の空やない?」
しまった、今は雪也さんと出かけている最中だった。完全に自分だけの世界に入り込んでしまうところだった。私は机の下できゅっと小さく自分の手を抓り、意識を目の前に戻した。
「俺の顔を見つめたまま何か考え事か?目の前には格好いい雪也さんしかおらへんで。」
「ええ、私の旦那様はいつ見ても格好いいなって思って見てました。」
「………じょ、冗談や。」
私は何か意表を突いてしまったみたいで、雪也さんは視線を逸らして照れてしまった。そんな彼を見て、私もなんだか恥ずかしくなって頬が熱くなる。何だろう、今のこの場の空気は。
2人揃って気恥ずかしくなっていると、給仕をしている少女が2人分の定食を運んできた。ただでさえ暖かくなっている場の雰囲気が、運ばれてきた食事の熱気で更に上がった気がした。
「さ、ささっ!食べましょ食べましょ!このお店の調理は旦那がしてるねんけど、これがまた妙技なんやわ!」
恥ずかしさを誤魔化すように、雪也さんは小さくいただきますと言い、手を合わせるとぱくぱくと箸を進めた。私もそれに倣うように、彼に続いた。綺麗な焼き目を付けているのは、今が旬のサワラだった。照り焼きにされていて光沢を帯びていて、箸で簡単に身を解すことが出来る。
汁物は豆腐と葱と油揚げと大根が入った赤味噌のお味噌汁。出汁の効いた醤油がかけられたほうれん草のおひたしに、数点のお漬物、そして艶を帯びた白米。これ以上ない幸せなお盆だった。
「…とても美味しい。」
気が付いたら、私はそんな感想を口に出していた。そんな私の独り言を聞き逃さなかった雪也さんは、満足げに私の言葉に頷き肯定した。
お互いの利害のために結託した契約の上の結婚だったはずだけど、私は確かに彼に惹かれていた。そして、彼のために生きたいと思い始めているのだった。




