第24話-3◆競争は終わっていない
「じゃあ座れ」
「見たい」
リリィは言った。
その声は弱いが、はっきりしていた。
「見たい。今、見たい」
俺はため息をつきかけて、飲み込んだ。
「俺の肩につかまれ。走るな」
「走れない」
「知ってる」
リリィが俺の腕につかまる。軽い。なのに、今の俺には重い。エイヴァはリリィの手の中で丸まり、片目だけ開けている。
ベルニーが拾った札を並べた。
文字は半分焼け、半分削れている。白い連中が名前を残すとは思えない。案の定、人の名らしいものはほとんどなかった。
だが、印は残っていた。
欠けた翼。
小さな点。
耳長。
片側。
隣国側。
白い保護院。
輸送済み。
ベルニーが読める部分だけを拾っていく。
「隣国側。白い保護院。片方の器。輸送済み」
リリィの指が震えた。
「名前は?」
「ない」
ベルニーは短く言った。
リリィは唇を噛む。
エイヴァが、しぼんだ羽をわずかに動かした。
「名前を消す連中だ。残すなら、形の方だろうね」
「形……」
リリィは自分の荷物から、薄い青の布片を取り出した。
ずっと持っていた布。
白い馬車から取った、里の縫い方が残った布片。
それを、焼け残った記録札の端に重ねる。札に貼りついた糸くずは、青に近かった。ほんの少しだけ。見落としそうなほど細い。
リリィの手が止まる。
「これ、里の糸……でも、名前がない」
「読める分だけでいい」
俺は言った。
リリィは俺を見る。
「いいんですか」
「今ある分で進むしかない」
「白い保護院」
エイヴァの羽が、わずかに震えた。
「……名前だけなら、聞いたことがあるよ」
「どんな場所だ」
「保護、なんて言葉を看板にした檻さ。少なくとも、子供が自分の名前を取り戻す場所じゃない」
リリィが布片を握る。
怖がっている。
だが、目をそらしていない。
「姉さん……かもしれない」
「ああ。かもしれない、だ」
俺ははっきり言った。
断定はしない。
断定すれば、また白い連中の餌になる。
でも、今度は何もないわけじゃない。
国境の向こう。
隣国側の白い保護院。
片方の器。
輸送済み。
名前はない。
姿もない。
声もない。
それでも、行く場所はできた。
リリィは布片を胸に押し当てた。
「でも、行ける場所ができた」
「ああ」
「遠いですか」
「近いとは言ってない」
「うん」
リリィは泣きそうな顔をした。
けれど、さっきとは違う。
絶望で泣く顔ではなかった。
痛くて、怖くて、遠くて、それでも次の道が見えた顔だった。
バランが咳払いした。
「感動的なところ悪いけれど、そろそろ外が騒がしくなるよ」
砦の外から、兵たちの声が近づいてくる。国境砦が半壊し、白い巡礼団の札が散り、危険値九十八のオークが中にいる。説明するには、かなり面倒な状況だ。
俺は斧を担ごうとして、失敗した。
腕が上がらない。
「くそ」
「その体で担ぐ気かい」
バランが呆れた声を出した。
「置いていくわけにいかん」
「貸せ」
「嫌だ」
「今、見栄を張る場面かな」
「斧は見栄じゃない」
リリィが俺を見上げる。
「グロー、持てないなら、少しだけ預けてもいいと思う」
「誰に」
リリィがバランを見る。
俺も見る。
バランがやけに爽やかに笑った。
「ぼくに任せたまえ」
「余計に嫌だ」
「なぜだい」
「似合うから腹が立つ」
「それは褒め言葉だね」
「違う」
ベルニーが面倒そうに言った。
「斧は置けない。バラン、持って。早く」
「ほら、ベルニーも言っている」
「命令形だぞ」
「信頼の裏返しだよ」
「便利な耳だな」
結局、斧はバランが一時的に持った。
腹立たしいことに、似合わないわけではなかった。腹立たしい。
バランは国境兵たちが来る方へ目をやる。
「ここはぼくが引き受けよう」
「急にいい奴になるな。気持ち悪い」
「失礼だね。ぼくは最初から魅力的だ」
「黙ってればな」
「黙ると魅力が半減する」
「増える」
ベルニーが言った。
バランは少し傷ついた顔をした。
「今のは本気で刺さるね」
「早く行って」
ベルニーが俺たちを見る。
その目は、いつもの冷たさを残していた。だが、急かしているだけではない。今ならまだ通れる。そう判断している目だ。
エイヴァが片目を細める。
「この子が一番話が早いねえ」
「ぼくの名場面なのに」
「名場面にするなら短くしろ」
俺はバランから斧を受け取った。
重い。だが、何とか持てる。
バランは少しだけ真面目な顔になった。
「競争は終わっていないよ」
「何の競争だ」
「どちらが先に、この白い連中の鼻を明かすか」
バランはそこで、いつものように少しだけ芝居がかった笑みを戻した。
「それに、君に貸しを作っておけば、後で高く売れそうだ」
「金はないぞ」
「知っているとも。だから、金以外で払ってもらう」
「余計に嫌だ」
「再会の理由としては上等だろう?」
俺は息を吐いた。
「助かった。腹は立つが」
バランの顔が、妙に嬉しそうになった。
「その礼、妙に癖になるね」
「癖にするな」
「次も言わせよう」
「次がある前提か」
「当然だろう」
ベルニーがリリィへ視線を向けた。
「行って」
それだけだった。




