第21話-1◆上出来
黒砂地を抜けると、道は急に硬くなった。
踏めば沈む砂ではない。石と土が混じった古い坂道だ。荷車が何度も通った轍があり、端には乾いた草が倒れている。遠くから風が吹くたび、まだ耳の奥に残っている砂の音が、薄くこすれるように揺れた。
リリィの足音が、一つ遅れる。
「止まるぞ」
「だいじょうぶ」
「聞いてない」
俺は振り返り、しゃがんだ。
リリィは口を少し結んだ。文句を言いたそうな顔だ。だが、右足をかばっているのは隠せていない。裸足で白い砂を踏まされたあと、少ない水で洗っただけだ。靴の中に布は噛ませてあるが、傷が消えたわけじゃない。
「足」
「……痛い」
「言えた。よし」
「先に言うって、言ったから」
「言ったなら守れ」
「守ってる」
少しむっとした声が返ってきた。
それでいい。返事があるうちは、まだ歩ける。黙っていい子の顔をし始めた時の方が危ない。
俺はリリィの靴を脱がせ、布を確かめた。白い砂はもうほとんど残っていない。ただ、足裏の赤くなったところが、歩くたびに布と擦れている。急げば割れる。
急ぎたい。
白い箱は国境の方へ消えた。白い札の者も、まだ先にいる。子供の言った「高い門」「白い部屋」「響きが返る」という言葉が、ずっと頭の隅に引っかかっている。
だが、足を潰した子供を引きずって追うのは、追跡じゃない。失敗だ。
「少し詰める」
「また布、使うの?」
「ああ」
「少ないのに」
「足より安い」
リリィは何か言いかけて、やめた。代わりに、手を膝の上でぎゅっと握る。
荷袋の上では、エイヴァが半分眠った顔で丸くなっていた。白い羽がいつもよりしぼんでいる。鳴り砂で無理をしたあと、子供たちの前では普通の小鳥のふりまでしていた。小さい体にしては、働きすぎだ。
「君の言い方は、本当に金勘定から離れないねえ」
「起きてたのか」
「寝ていても、雑な保護者の声は聞こえる」
「俺は保護者じゃない」
「右足、もう少し内側にも布を噛ませな。かかとだけ見てると、指の付け根が擦れるよ」
「……助かる。腹は立つが」
「感謝だけにできないのかい」
エイヴァはくちばしを小さく鳴らした。文句を言う元気はあるらしい。
俺は布を薄く裂き、靴の中へ入れ直した。リリィに足を入れさせ、立たせる。
「歩け」
リリィは二歩だけ歩いた。顔をしかめる。けれど、さっきよりましだ。
「どうだ」
「痛い。でも、歩ける」
「いい。痛くなくなるとは言ってない」
「そこは言ってほしかった」
「嘘になる」
「グローは、そういうところがあります」
リリィが小さく息を吐いた。少しだけ笑っている。
昔なら、こういう時は遠慮して黙っただろう。今は言い返す。怖いことを怖いと言って、痛いことを痛いと言って、そのうえで歩こうとする。
いい傾向だ。
悪い方向に伸びると、自分から危ないところへ突っ込む。そこは止める。
俺は立ち上がり、坂の先を見た。
道の向こう、低い丘の切れ目に、灰色の壁が見えた。
三差路の町の壁より高い。山上検問砦より横に長い。街道をまたぐように建てられた石の塊で、中央に大きな門がある。門の上には見張り台。両脇には小さな塔。壁の手前には荷車の列と、人の列。
国境砦だ。
風が、門の方から吹いた。
リリィが胸元を押さえる。顔が少し白くなった。
「リリィ」
「……音がする」
「砂か」
「ちがう。砂じゃない。もっと、高いところから返ってくる感じ」
俺には風の音しか聞こえない。
だが、リリィの耳は揺れていた。怖がっている時の動きだ。逃げたいのに、逃げる前に確かめようとしている。
エイヴァが荷袋の上で首を上げた。
「門が鳴っているんだろうね」
「門が?」
「石だよ。古い石は、ただ積めば壁になる。でも、余計な線を入れれば、別のものになる」
「測る石か」
「似たような嫌なものだよ」
俺は国境砦を見た。
町の門も、石で俺たちを測った。移動市の井戸底にも記録盤があった。山上検問砦も、ただの通行施設ではなかった。鳴り砂の谷は、足音と魔力の揺れを拾った。
今度は国境だ。
門が高くなるほど、ろくでもない仕組みも大きくなるらしい。
「行くぞ」
「うん」
「歩幅は小さくしろ。痛くなったら言え」
「言う」
「エイヴァ」
「何だい」
「落ちるなよ」
「失礼だね。今日は落ちてない」
「今日はまだ、だ」
「君は本当に余計なところで正確だよ」
エイヴァは文句を言いながら、リリィの肩へ移ろうとして、途中で羽をばたつかせた。
俺は手を出す。白い小鳥は俺の手の甲に着地し、何もなかったように胸を張った。
「今のは風だよ」
「風は逆だ」
「細かい」
「寝ろ」
「国境前で寝られるかい」
そう言いながら、エイヴァは俺の肩へ移った。くちばしだけは偉そうだが、羽は少し震えている。
俺たちは坂を上がった。
国境砦に近づくほど、人の声が増えた。
荷車の車輪。馬の鼻息。兵の号令。商人の怒鳴り声。巡礼者の祈り。紙をめくる音。札を木板に叩きつける音。
門前には、三つの列があった。
荷車の列。人だけの列。白い布を掲げた小さな列。
最後の列だけ、進みが早い。
白い布を持つ者たちは、兵に止められても短い確認だけで奥へ通されている。荷車の覆いは白い。外套も白い。深い頭巾で顔を隠している者がいる。手袋をしている大人もいる。
リリィの足が止まりかけた。
俺は半歩、横へ出る。白い列とリリィの間に体を置く。
「見るなとは言わん。近づくな」
「……うん」
リリィは頷いた。けれど、視線は白い布の列から離れない。
荷車の一つに、白い覆いのかかった長い荷が載っていた。
箱か。
はっきりとは見えない。布の端に細い銀の糸が縫い込まれている。欠けた翼に似た、小さな線。車輪の片側が少し沈む。重さが偏っている。
腹の奥が冷えた。
白い箱そのものかはわからない。だが、同じ匂いだ。白い飴の冷たい匂い、泣けない子供の静けさ、砂の底で待っていた白い札。
「グロー」
リリィの声が細い。
「あの向こう……」
「断定するな」
俺はすぐ言った。
リリィがこちらを見る。叱られた顔ではない。言われるとわかっていた顔だ。
「でも」
「わかる。だから断定するな」
「……うん」
「姉の手掛かりかもしれない。違うかもしれない。向こうはそう思わせたいだけかもしれない」
リリィは唇を噛んだ。
厳しい言い方だとは思う。だが、ここで甘く頷けば、リリィはあの箱の中にオリビアを見てしまう。見たら、走る。走れば足が裂ける。足が裂けても、止まらないかもしれない。
俺はリリィの前に立ったまま、低く言った。
「今、持つのは一つだ」
「歩ける分だけ」
「ああ」
リリィは胸元を押さえたまま、小さく頷いた。
エイヴァが俺の肩で羽を少し膨らませる。
「君にしては、言葉を選んだじゃないか」
「選んでこれだ」
「まあ、君なら上出来だね」
「褒め方が腹立つ」
「褒められて腹を立てるんじゃないよ」




