第20話-3◆置いていきたくない
「姉さんだけじゃなくなってきました」
小さな声だった。
「あ?」
「最初は、姉さんを探してました。今も、探したいです。でも……あの子たちも」
リリィは救えなかった奥の方を見た。
もう白い影は見えない。
それでも、そこに残っているものを見ている目だった。
「置いていきたくない」
俺は少し黙った。
その気持ちは悪くない。
悪くないが、重い。
子供一人が持てる重さじゃない。
「全部背負うな」
リリィがこちらを見る。
「でも」
「歩ける分だけ持て」
「歩ける分」
「今のおまえは、足も痛い。腹も足りてない。怖さも残ってる。三人助けただけで、もうふらついてる」
「……うん」
「だから、今は三人だ」
リリィの目に、少しだけ涙が浮いた。
こぼれはしなかった。
「次は、もう少し」
「次を考えるなら、まず足を治せ」
「そこに戻るの?」
「戻る」
エイヴァが小さく笑った。
「グローらしいねえ。大きな決意も、まず靴と足からだ」
「足がなければ決意は歩かん」
「たまにまともなことを言う」
「たまにか」
「まあまあの頻度だよ」
リリィが涙を飲み込むようにして、少し笑った。
「歩けるようにします」
「まず座れ」
「はい」
素直に座った。
よし。
俺はリリィの右足を見る。傷は深くない。だが、白い砂が細かく刺さっている。
俺の指では大きすぎる。布越しにそっと払っているつもりでも、リリィの肩が小さく跳ねた。
水は少ししかない。けれど、傷口に残す方がまずい。ほんの少しだけ使って洗う。
冷たかったのか、リリィの指先が俺の袖をつかんだ。
「痛い」
「言えた。よし」
「もう少しやさしく洗って」
「善処する」
「それ、あまりやさしくない時の言葉」
「覚えなくていい」
「覚えちゃいました」
「面倒だな」
俺は布を折り、砂を払う面を変えた。
リリィの足は小さい。白い砂で赤くなった傷口を見ると、腹の奥がまた冷える。これで走らせた。これで立たせた。必要だったとはいえ、気分のいいものじゃない。
俺は少しだけ手を遅くした。
「今のは?」
リリィが聞く。
「何が」
「少し、やさしかった」
「気のせいだ」
「気のせいなら、もう一回」
「調子に乗るな」
リリィが小さく笑った。
その笑いが出るなら、まだ大丈夫だ。
バランが横で子供に焼き菓子の欠片を見せていた。
子供は疑っている。
ベルニーが先に欠片を少し食べる。
「普通。高い」
また同じ判定だ。
子供はそれを見て、少しだけ口を開いた。
バランが嬉しそうにする。
「ぼくの菓子は今日も信用を勝ち取った」
「ベルニーが勝ち取った」
「君は本当に」
バランは俺を見て、子供の前だと思い出したのか、声を抑えた。
「まあ、いい。菓子の勝ちでも、今日はいい」
エイヴァが白い記録札へ目を戻した。
「国境砦か」
俺が言う。
エイヴァはすぐには答えなかった。
くちばしで羽を整えようとして、途中で止まる。羽が少し震えている。疲れだけではない。
「エイヴァ」
「似ている」
「何に」
「アタシの封じに使われたものと、嫌なほどね」
リリィが顔を上げた。
エイヴァはわざとらしく羽づくろいを始めた。
「詳しくは話さないよ。今話すと、君たちの頭が重くなる。グローの荷物みたいに」
「俺の荷物は実用だ」
「そういう話じゃない」
「国境砦に、同じものがあるのか」
「同じとは言わない。測り石、記録盤、白い馬車、鳴り砂。全部、別の顔をしているけれど、根っこは似ている。国境砦に残っていても、驚かない」
「驚かないだけか」
「嫌になるね」
エイヴァの声は軽くなかった。
「昔、こういうものを正しいと信じた連中がいた。欠けたものを整える。響きを保つ。器を測る。言い方だけは綺麗なんだ」
「白い手袋のやつと同じか」
「同じ穴の匂いはする」
エイヴァはそこで言葉を切った。
リリィが静かに聞いている。
エイヴァは小鳥の顔を作ろうとして、少しよろけた。
俺は手を出す。
エイヴァが俺の手の甲に乗った。
「……今日は着地する前に足場が近づいてきただけだよ」
「落ちる前に拾った」
「言い方」
「事実だ」
「ベルニーみたいなことを言うんじゃない」
ベルニーがこちらを見た。
「事実」
エイヴァはくちばしを閉じた。
リリィが笑った。
小さな笑いだが、窪みの中の空気が少しだけ軽くなる。
その後、役割を決めた。
子供三人を連れて俺たち全員で国境へ行くのは無理だ。白い巡礼団に追われる。子供の足が持たない。食料も水もない。
バランとベルニーが、子供たちを近くの街道番へ連れていく。
バランの名で保護依頼を出す。
ベルニーが記録を確認し、白い巡礼団へ戻されない形にする。
俺たちは、白い箱を追って国境砦へ向かう。
最初にそれを言った時、リリィは迷った顔をした。
「わたしたちが、子供たちを置いていくの?」
「置いていくんじゃない。預ける」
「白い人たちに戻されない?」
ベルニーが首を横に振った。
「戻さない記録にする」
「記録って、信用できますか」
リリィの声には、これまで見てきたものへの嫌悪が混じっていた。
門の記録。測り石の記録。白い巡礼団の札。
記録という言葉が、もう安心ではなくなっている。
バランが膝をついたまま、リリィを見る。
「だから、ぼくの名前を使う。ぼくがあとで確認する。戻されていたら、かなり派手に怒る」
「派手に?」
「とても派手に」
「それは……役に立つ?」
リリィが真面目に聞いた。
バランは少しだけ笑う。
「こういう時は、役に立つ」
ベルニーが頷いた。
「役に立つ」
バランが目を輝かせた。
「今日のベルニーはぼくに優しい」
「必要だから」
「それでもいい」
リリィは俺を見た。
俺は頷く。
「俺たちが連れていくより、生きる目がある」
「……うん」
「心配なら、心配だと言え」
「心配」
「よし」
リリィは少しだけ口元を緩めた。
子供の一人が、リリィの裾をそっとつかんだ。
リリィは驚いて、その子を見る。
子供は目を伏せたまま、小さく言った。
「リリィ」
「うん」
「名前、言えたら……言う」
リリィの顔がくしゃりと歪みかけた。
けれど、泣かなかった。
「うん。言いたくなったらでいい」
子供は頷いた。
鈴はもう握っていなかった。
岩の上に置かれている。まだ近くにある。離すには怖いのだろう。それでも、手からは離れた。
それだけで、少し進んだ。




