第19話-4◆三人
俺は抱えていた子供を岩陰へ座らせる。
「水」
リリィがすぐに水袋を持ってきた。自分の分を削っている顔だ。
「少しずつ」
リリィが子供に水を飲ませる。
子供は最初、飲み方を忘れたみたいに唇を濡らすだけだった。やがて、ごくりと飲み込む。
エイヴァが近くで丸くなっている。
かなり疲れている。羽がしぼみ、目も眠そうだ。それでも子供たちの前では、小鳥らしく首をかしげて見せていた。
白い外套の一人が、かすれた声で言った。
「名前は……あとで」
リリィの顔が痛そうに歪む。
「今は言わなくていい」
「あとで、返すって」
「今は、いらない」
リリィは自分の胸に手を当てた。
「自分で持ってていい」
子供はその意味をすぐには理解しなかったようだった。
けれど、鈴を握る手が少しゆるんだ。
ベルニーが三人目の首の白い札を見ている。
「これ」
俺は近づく。
札には黒い点が五つ。欠けた輪。短い線。文字ではない。
だが、リリィがさっき踏んだ砂の跡と似ている。
エイヴァが低く言った。
「記録札だね。子供の名札じゃない。響きの控えだ」
「外せるか」
「外すだけなら」
俺が手を伸ばすと、子供がびくっとする。
リリィが先に言った。
「取ってもいい?」
子供は迷った。
それから、小さく頷いた。
俺は紐を切った。札が落ちる。
子供の肩が、少しだけ下がった。
それまで息を止めていたみたいに、細い胸が震えながら上下する。
頭巾の奥の目が、初めて札ではなく俺たちを見た。
バランが戻ってきて、岩に腰を下ろした。
「全部ではないね」
声は軽くなかった。
ベルニーが矢筒を確認しながら言う。
「でも、ゼロじゃない」
バランは少しだけ笑った。
「君にしては、励まし方がやさしい」
「事実」
「うん。そうだね」
リリィは裸足の右足をかばって座った。
足裏には細い傷がある。白い砂がまだ少しついていた。
俺は膝をつき、靴を取った。
「足」
「痛い」
「言えた。よし」
「次は、先に言う」
「そうしろ」
靴の中の砂を払う。布を一度抜き、白い砂が残っていないか確認する。靴底にも砂が入り込んでいた。さっきリリィが気づかなければ、まだ固定されていたかもしれない。
腹が冷える。
俺は黙って靴を戻そうとした。
リリィが小さく言う。
「グロー」
「ああ」
「引いてくれて、ありがとう」
「条件だったからな」
「うん」
「次も引く」
リリィは少しだけ笑った。
「次がない方がいい」
「それはそうだ」
エイヴァが眠そうに言う。
「君たちは、危ない話を日常みたいにするねえ」
「おまえも落ちる話を日常にするな」
「今日は落ちてない」
「飛び方が危なかった」
「細かい」
リリィが笑う。
その笑いが、さっきより少しだけ震えていなかった。
谷の奥は静かになっている。
白い箱は消えた。
白い手袋の者も消えた。
けれど、完全に逃げたわけではない。向こうはリリィの響きを記録した。こちらの動きも見た。バランの音も、ベルニーの矢も、俺の斧も、エイヴァの小鳥のふりも。
全部、向こうの札に残ったかもしれない。
俺は黒砂地の奥を見る。
そこにはもう、白い影はない。
ただ、白い飴の冷たい匂いだけが、まだ薄く残っていた。
三人目の子供が、ぽつりと言った。
「白い箱……奥」
リリィが顔を上げる。
子供は震える指で、白い手袋の者が消えた方を指した。
「国境の音、するって」
「国境の音?」
リリィが聞き返す。
子供はうまく答えられない。言葉を探すように口を開け、閉じる。
「遠い。高い。門みたいな音」
それだけ言って、うつむいた。
俺はエイヴァを見る。
エイヴァは眠そうな目を少しだけ開けていた。
「国境の砦にも、似たものがあるのか」
「あるかもしれないね」
「言い切らないんだな」
「言い切りたい時ほど、言い切っちゃいけないことがあるんだよ」
エイヴァは羽を整えようとして、途中でやめた。
疲れが限界に近い。
俺は荷袋を少し寄せた。
「寝ろ」
「今?」
「今だ」
「君、誰にでもそれを言うね」
「生きてるやつにしか言わん」
エイヴァは一瞬黙り、それから丸くなった。
バランが周囲を見た。
「で、どうする。追うには遅い。戻るにも、この谷は親切じゃない」
「子供を安全な場所へ移す」
「安全な場所があればね」
「作る」
俺は立ち上がった。
リリィも立とうとして、足を痛がった。
「座ってろ」
「でも」
「今は足が仕事を終えた。次は口だ」
「口?」
「子供たちに、わかることを聞く。無理に名前は聞くな。白い箱、国境の音、白い手袋。覚えているものだけでいい」
リリィは少し考え、頷いた。
「うん」
ベルニーが周囲の岩を見ている。
「少し戻ったところに、音が少ない窪みがある」
「そこへ運ぶ」
「私が先に見る」
「ああ」
バランが剣を鞘に納めた。
「ぼくは荷物かな?」
「目立つ荷物だ」
「子供を運ぶには悪くないね」
「落とすな」
「落とすわけないだろう」
バランは白い外套の子供の前へ膝をついた。いつもの派手な笑みではなく、少し抑えた顔をしている。
「大丈夫。ぼくは見た目ほど騒がしくない」
ベルニーが横から言った。
「見た目通り」
「今は黙っていてくれないかい?」
子供が少しだけ、目を瞬かせた。
怖さが消えたわけではない。
だが、白い手袋の者の声とは違う何かを、子供たちは聞いている。
俺はリリィの靴紐を結び直した。
「立てるか」
「少しなら」
「少しでいい。無理なら言え」
「言う」
「次は先に」
「うん。先に言う」
俺は頷き、裂け目の奥をもう一度見た。
白い札の者は逃げた。
子供たち全員を取り戻せたわけでもない。
白い箱も、谷のさらに奥へ消えた。
だが、俺の腕の中には、震える子供が一人いる。
リリィの手は、まだ俺の外套をつかんでいる。
ゼロじゃない。
その代わり、向こうもこちらを測った。
そして、国境という言葉だけを残していった。
俺は斧を担ぎ直す。
「行くぞ」
リリィが小さく頷いた。
谷の砂は、もう鳴っていなかった。
いや、鳴るのをやめたのではない。
次に誰の音を覚えるか、静かに待っているだけだった。




