第19話-1◆濁す
「作戦変更だ」
俺は裂け目の奥を睨んだまま、縄を握り直した。
「こっちが鳴る前に、向こうを鳴らす」
リリィはまだ砂を踏んでいない。
それなのに、右の裂け目の奥では鈴が三つ鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
細い音は谷の壁を伝い、砂の下を這い、足元まで戻ってくる。まるで、見えない指で地面の内側をなぞられているようだった。
リリィの肩が震えた。
「怖い」
「よし」
俺は短く返した。
怖いと言えたなら、まだこっちにいる。
裂け目の奥から、また声が落ちてくる。
「よく響く子です。どうぞ、怖がらずに」
穏やかな声だった。
だが、奥から聞こえたとは言い切れない。岩の隙間からも、砂の下からも、耳元からも聞こえた気がする。声の大きさは小さいのに、距離だけがはっきりしない。
白い飴を舌の上で転がした時みたいな、甘くて冷たい響きだった。
俺はリリィを背中側へ寄せる。
「耳を貸すな」
「うん」
「目も奥に置くな」
「……難しい」
「難しいなら言えた。よし」
リリィがほんの少しだけ息を吐いた。
俺の荷袋の上で、エイヴァが羽を低く伏せている。普通の小鳥のふりはもうどこにもない。目が鋭い。白い羽の隙間から、緊張がにじんでいる。
「鳴らされたね」
「リリィは踏んでない」
「踏む前に、向こうが形を拾った。さっきからこっちの音を待っていたんじゃない。もう聞いていたんだよ」
「こっちの配置もか」
「全部とは言わない。けど、リリィの響きはもう向こうに届いている」
ベルニーのいる岩壁から、短く声が落ちた。
「見られてる」
「見えるのか」
「手」
俺は裂け目の奥へ目を凝らした。
暗い岩の隙間。曲がった通路のさらに先、三十歩は奥だ。
斧を投げても届かない。届いたとしても、途中の岩に食われる。
その闇の中に、白いものが見えた。
手袋だ。
白い手袋の甲に、銀糸で欠けた翼が縫われている。こちらを招くように、指先だけが闇の中で浮いていた。
体は見えない。
顔も見えない。
なのに、声だけはすぐ近くにある。
「灯りは、閉じ込めるものではありません。整え、保ち、正しい場所へ運ぶものです」
「名前で呼べ」
俺は低く言った。
白い手袋の指が、ほんの少し止まった。
「名前」
声が、やわらかく笑う。
「もちろん。リリィ」
その呼び方で、リリィの体が強くこわばった。
ただ名前を呼ばれただけではない。声が、名前の端を舐めるように整えた。本人に向けた呼びかけではなく、札に書かれた文字を読み上げるような冷たさがあった。
リリィが俺の外套をつかむ。
「いや」
「聞かなくていい」
「でも、名前」
「あれは呼んでない。読んだだけだ」
リリィの手に力が入った。
エイヴァがくちばしを鳴らす。
「うまい言い方をするじゃないか」
「今は茶化すな」
「茶化してない。助かったんだよ」
白い手袋がゆっくり下がった。
代わりに、銀色の小さな鈴が見えた。
リリィの息が止まる。
俺は縄を手元へ巻きつけた。
「鳴るぞ」
鈴が鳴った。
ちりん。
音は小さい。
だが、リリィの手の白線が一気に浮いた。手の甲から手首へ、欠けた翼に似た線が走る。
リリィは足を出していない。
それでも、右足が岩の上で固まった。
「グロー」
「引く」
俺は縄を引いた。
だが、リリィの体は戻らない。
いや、体は戻ろうとしている。肩も、背中も、俺の方へ寄ろうとしている。なのに、右足だけが岩に縫い止められたように動かない。
砂に触れていないのに、足が止まっている。
リリィの顔が歪んだ。
「動かない」
「痛いか」
「痛い。足じゃない。中が、音に合わせられる」
裂け目の奥から、穏やかな声がした。
「動かないで。今が一番よく響きます」
「黙れ」
俺は斧の柄に手をかけた。
届かない。
敵は奥だ。白い手袋だけが見える。斧を投げても岩に当たる。無理に突っ込めば、リリィを置いていくことになる。
リリィが必死に足を動かそうとする。
「戻りたい」
「わかってる」
「戻りたいのに、足が言うこと聞かない」
「俺が聞かせる」
力で引くだけではだめだ。
縄を強く引けば、リリィの体を痛める。足だけ残したまま引くことになる。
俺は足元を見た。
白い砂は裂け目の入口に薄く流れ込んでいる。リリィの足は岩の上だ。だが、岩の表面にも細かい砂がまぶされている。その砂が、白線と同じ細い震え方をしていた。
音が足元の砂を通り、岩の薄い層へ入っている。
足を捕まえているのは縄でも鎖でもない。
音の流れだ。
「エイヴァ」
「散らせない」
早かった。
「生活魔法で温める程度ならできる。けれど、この鈴は砂全体を使っている。アタシの羽じゃ足りない」
「なら、別の手だ」
反対側の岩場で、金属が少し鳴った。
バランだ。
予定では、俺の合図で一度だけ音を出すはずだった。だが、今はもう予定が崩れている。
ベルニーの声が飛ぶ。
「まだ」
「わかっている!」
バランの声は抑えていた。
抑えているが、怒っている。
白い手袋の者が、そちらへわずかに指を向けた。
「華やかな音もありますね。けれど、今は静かに。整える時ですから」
その一言で、バランが動いた。
鞘で岩を叩く音がした。
かん、と。
予定より大きい。
砂が跳ねた。
岩場の下で、白い砂が一斉に震え、谷の壁へ音を投げる。
かん。
ちりん。
りん。
音が重なり、裂け目の入口でぶつかった。
リリィの足を止めていた細い震えが、一瞬だけ乱れる。
リリィの膝が崩れかけた。
俺は縄を引く。
今度は少し動いた。
「リリィ!」
「うん、今、少し!」
ベルニーが上から短く言った。
「使える」
バランが岩場の向こうで笑った。
「ほら、ぼくは必要だった!」
「腹は立つがな!」
俺は叫び返した。
白い手袋の者の声が、初めてほんの少しだけ低くなる。
「乱れた音は、子供に悪い」
「子供を音で呼ぶやつが言うな」
ベルニーが矢をつがえた。
狙いは敵ではない。
リリィの足元から少し離れた、砂の薄い場所だ。
矢が飛ぶ。
風を切る音は小さかった。矢じりが砂へ刺さり、その下の硬い層へ当たる。
きん、と細く鳴った。
直後、砂が崩れた。
ただ崩れたわけではない。薄く張っていた音の膜が、そこだけ破れたように震えが濁る。
リリィの白線が少し薄くなった。
エイヴァが目を見開く。
「そうか。消すんじゃない。濁すんだ」
ベルニーが次の矢を構える。
「消せないなら、濁す」
「いいねえ。乱暴で賢い」
エイヴァが笑った。
俺はリリィの足元と、裂け目の奥へ伸びる砂の筋を見た。
線が見えるわけじゃない。
だが、音の通っている道はわかる。砂が細かく震え、岩の薄い表面だけが白く乾いている。リリィを固定しているのはそこだ。
「敵は奥だ。届かん」
俺は斧を抜いた。
バランが叫ぶ。
「ならどうする!」
「足元を壊す」
「やれやれ、君らしいねえ!」
エイヴァの声が飛ぶ。
ベルニーが短く言った。
「正しい」
俺は斧の刃ではなく、背を使った。
岩の縁を狙う。
リリィの足元を直接叩けば危ない。だから、少し前。裂け目へ向かう砂の筋と、ベルニーの矢で濁った場所の間。
斧の背を振り下ろす。
岩が鳴った。
がん、と。
普通の岩の音ではない。
中に張った薄い板を割るような音がした。白い砂が跳ね、裂け目の入口で小さな亀裂が走る。
谷全体が、怒ったように鳴った。
ちりりりりり。
リリィが悲鳴を飲み込む。
俺は二度目を叩いた。
岩の縁が欠ける。
砂の下の硬い層が割れ、白い砂が穴へ流れ込む。
リリィの足を止めていた震えが、ぷつりと切れた。




