第18話-4◆配置につく
谷は暗い。匂いは嫌だ。敵の声は近い。子供の声も聞こえた。
だが、こちらの足元はまだ崩れていない。
「配置につく」
俺は言った。
ベルニーが先に動く。岩壁の出っ張りを使い、右の裂け目を斜めに見下ろせる位置へ移る。足音がほとんどない。弓を構え、矢を半分だけ引ける形で止まった。
バランは反対側の岩場へ向かう。
途中で一度だけ振り返った。
「控えめに、だね」
「一度だけだ」
「わかっている」
「二度鳴らしたら、次から口も縄で縛る」
「それはそれで、ぼくの美しさが制限される」
「制限しろ」
バランは笑い、岩場へ消えた。
エイヴァはリリィの肩へ行こうとして、俺が止めた。
「重くするな」
「二度目だね、その言い方」
「大事だからな」
「アタシは羽みたいなものだと何度言えば」
「態度が重い」
「君の語彙もだいぶ重いよ」
エイヴァは文句を言いながらも、俺の荷袋の上へ乗った。
「ここから見る。いざとなったら鳴くよ」
「喋るなよ」
「敵の前では普通の小鳥だ。ぴるる」
「信用しにくい小鳥だ」
リリィが靴のつま先を一度見た。
布は直した。水も飲んだ。飯も食べた。顔色はまだ白いが、さっきより立っている。
俺は縄をリリィの外套へ回す。
腰を締めすぎない。脇を支えられる位置。引けば後ろへ戻せる。前に倒れかけたら、体を浮かせられる。
リリィは黙ってそれを受け入れた。
ただ、最後に小さく言った。
「グロー」
「ああ」
「わたしが決める。でも、引いて」
俺は縄を握る手を止めた。
「危ない時は、わたしが行きたいって言っても、引いて」
リリィの声は震えていた。
怖いと言えている。
自分で決めると言いながら、戻してほしいとも言えている。
それは弱さじゃない。
俺は短く頷いた。
「任せろ」
リリィは俺を見た。
「今の、ちょっとかっこよかった」
「ちょっとか」
「うん。ちょっと」
「面倒だな」
リリィは少し笑った。
その笑いのまま、裂け目の入口へ立つ。
右の裂け目は、近づくとさらに狭く見えた。岩の壁が左右から迫り、下には白っぽい砂が細く流れ込んでいる。砂の上には、目に見えない細い線が張っているみたいだった。
俺は一歩後ろに立つ。
縄を握る。
左手は斧に届く位置。右手はリリィ。足場は岩。踏ん張れる。
ベルニーが上から短く合図した。
「見える」
反対側から、バランの声が小さく届く。
「準備はいいよ」
「声がもう大きい」
「すまない」
珍しく素直だった。
リリィが息を吸う。
足を上げる。
白い砂へ、まだ触れていない。
その時だった。
裂け目の奥で、先に砂が鳴った。
ちり。
リリィの足は空中で止まる。
俺は縄を引きかけた。
続いて、りん、と鳴る。
昨日聞いた返音よりも近い。右の裂け目の奥。子供の声がした場所より、さらに手前かもしれない。
リリィは、まだ砂を踏んでいない。
それなのに、向こうが鳴った。
ベルニーの弓がきしむ。
バランのいる岩場から、小さく鞘が石に触れる音がした。予定より早い。だが、まだ鳴らしてはいない。あいつも止まったのだろう。
裂け目の奥から、穏やかな声が落ちてきた。
「迷子の灯りが、近づいていますね」
優しい声だった。
子供を寝かしつけるような、静かな声。
そのせいで、余計に腹の底が冷えた。
リリィの肩が震える。
俺は縄を握り直した。
飯は食わせた。
水も飲ませた。
足の布も直した。
合図も決めた。
それでも足りないものがある。
目の前の相手が、こちらを待っていた場合の手だ。
声は、もう一度言った。
「よく響く子です。どうぞ、怖がらずに」
リリィが息を止めた。
俺は低く言った。
「リリィ」
「……怖い」
「よし」
縄を引いた。
リリィの足が、砂に触れる前に岩へ戻る。
その瞬間、裂け目の奥で鈴が三つ鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
穏やかな声が、少しだけ笑った。
「賢い付き添いですね」
俺は斧の柄に手を置いた。
バランの陽動はまだ鳴っていない。
ベルニーの矢もまだ飛んでいない。
エイヴァは普通の小鳥のふりを忘れ、羽を低く伏せていた。
俺たちは作戦を始める前に、相手の手の内へ片足をかけていた。
いや。
まだ踏んでいない。
踏ませてたまるか。
「作戦変更だ」
俺は裂け目の奥を睨んだまま言った。
「こっちが鳴る前に、向こうを鳴らす」




