第02話-3◆エイヴァが戻るまで
リリィの指が、靴をぎゅっと握った。
「グローさん」
「ああ」
「一時間って、どれくらい?」
「長い」
「……短いって言ってほしかった」
「嘘になる」
「グローさんは、そういうところがあります」
「どこだ」
「正直すぎて、困るところ」
言い返されて、俺は少しだけ口元を歪めた。
「元気なのはいい。方向が悪い」
「今の、ほめてないです」
「事実だ」
リリィはむっとした。昨日より少しだけ、むっとするのが早い。
いい傾向なのか、悪い傾向なのかはわからない。
役場裏の戸の向こうでは、何人かが出入りしている。小僧。町役場の下働き。門番。木札を持った男。
昨日の門番ではない。
だが、そいつが持っていた束の中に、赤い印の木札があった。俺たちのものと同じ危険札。それから、白い細い線が走った小さな控え札。
リリィが小声で言った。
「今の札、石の時の線みたいでした」
「見えたか」
「少しだけ。羽みたいな形」
「覚えたか」
「うん」
リリィは言ってから、はっとしたように俺を見た。
「覚えました」
「いい」
短く言うと、リリィはまた少し固まった。
「それ、ほめました?」
「……まあ、そういうことでいい」
リリィは少しだけ嬉しそうにした。すぐ、役場裏へ視線を戻す。
役場裏の戸が一度開いた。
鳥籠は見えない。
中から声が漏れた。男の声。何を言っているかまでは聞こえない。ただ、「日報」「測り石」「白線」という単語だけが、風に乗った。
俺は立ち位置を変えた。リリィを背中側に入れ、露店の荷の影に半分隠す。
「下がれ」
「うん」
時間が遅い。
一時間はまだ経っていない。だが、遅く感じる。
リリィが靴を見下ろした。
「履いても、いいですか」
「ああ」
俺はしゃがみ、古い靴の中を指で探った。釘はない。石もない。紐は固いが使える。
リリィが足を入れる。少し大きい。今の靴よりはましだが、そのまま歩くと擦れる。
俺は買ったばかりの糸を見て、顔をしかめた。
「布がいる」
「今の靴の中敷き、少し切れます」
「いいのか」
「古いほう、もう痛いから」
リリィが自分で古い靴から布切れを外そうとした。指がうまく入らず、少し焦る。
「貸せ」
俺は古い布を短く裂き、新しい靴の中へ噛ませた。
傭兵の行軍で、足を潰すやつは真っ先に遅れる。遅れたやつから死ぬ。靴擦れひとつで命が削れるのを、俺は何度も見てきた。
子供の靴の調整なんぞ習った覚えはない。だが、足の遊びを見るのは遠征の支度と同じだ。
「きついか」
「だいじょうぶ」
「だいじょうぶじゃない時は」
「そう言う」
「言ってみろ」
「少し、かかとが浮きます」
「早く言え」
「今言いました」
「そうだな」
紐を締め直す。
リリィは新しい靴を見て、嬉しそうな顔をしないようにして、失敗していた。
「歩け」
リリィは二歩だけ歩いた。
「歩けます」
「走るな」
「走りません」
言い終わった直後、役場裏の戸が乱暴に開いた。
小僧が出てきた。手には鳥籠がない。
俺は斧の柄に手をかけた。
小僧は露店の店主へ走り寄り、何かを耳打ちした。店主の顔が変わる。驚きと、欲と、面倒を見つけた顔。
「おい」
俺が一歩踏み出すと、店主は慌てて手を振った。
「待て待て! 鳥はいる! いるから!」
「籠は」
「役場の奥に、ちょっと、確認で――」
そこまで言ったところで、役場裏の戸の下から白いものが転がり出た。
エイヴァだ。
飛んだ、というより、鳥籠の留め具を内側から緩め、戸の隙間を抜けて落ちたらしい。胸の毛が変な方向に割れ、羽の先には豆粒ほどの薄い光がまだ残っていた。
生活魔法だ。
派手なことはできないくせに、こういう細かい悪さだけは上手い。
続いて、戸の内側から男の声がした。
「おい、白い鳥はどこへやった!」
俺は一歩前へ出た。
小僧が青ざめる。店主が息を飲む。柵の方にいた赤札持ちたちまで、こちらを見る。
エイヴァは地面を二度跳ね、木箱にぶつかり、そこから気合で持ち直してリリィの肩へ飛び込んだ。
「エイヴァ!」
「きゅ」
リリィが両手で包む。エイヴァは羽を逆立て、かなり不満そうな顔をしていた。白い羽が少ししぼんでいる。
「ひどい目に遭ったよ。まったく、あの保管室、埃っぽいったらないね」
「怪我は」
俺が言うと、エイヴァはくちばしを鳴らした。
「羽は抜けてない。だから店主の歯もまだ抜かなくていい」
店主が遠くでびくっとした。
リリィはエイヴァを包んだまま、泣きそうな顔で怒っていた。
「もう担保はいやです」
「うん」
エイヴァが珍しく素直に言った。
「アタシもだ」
俺は店主の方へ歩く。店主は後ずさった。
「担保は戻った。札を返せ」
「お、おう」
店主は担保札を差し出した。
俺は受け取り、二つに折った。
「次に鳥を担保にしろと言ったら、店ごと担保にする」
「意味がわからねえよ!」
「俺もだ」
「おまえが言ったんだろ!」
店主は笑おうとして、失敗した。
俺が一歩寄ったからだ。
別に怒鳴ってはいない。斧も抜いていない。ただ、逃げ道と手の位置を見ただけだ。店主の喉が動き、周りの客が半歩引く。
こういう沈黙は、戦場でも町外れでも同じだ。
これ以上踏み込めば、痛い目を見る。そうわかったやつから黙る。
リリィが小さく俺の袖を引いた。
「グローさん」
「……ああ」
俺は足を止めた。
店主がようやく息を吐く。
リリィが小さく笑いかけて、すぐエイヴァを心配そうに見た。
エイヴァはリリィの手の中で丸くなりながら、声を落とした。
「見たよ」
「何を」
「役場裏の壁。古い紋様があった。昨日の石板と同じ系統だ。欠けた翼の印もね」
俺は周りを見た。人が多い。
エイヴァはさらに小さく言う。
「それから、日報はもう写された。門番の日報から、役場の控え札へ。控え札から、奥の保管棚へ」
「誰かが見るのか」
「見るだろうね。棚の札には白い馬車の絵があった」
白い馬車。
リリィの手が止まる。
「馬車?」
「巡礼馬車に似た絵だよ。白い布で覆われたやつだ。欠けた翼の印と、一緒に描かれていた」
リリィはエイヴァを包む手に力を込めすぎて、エイヴァが「きゅ」と鳴いた。
「あっ、ごめん」
「今のは普通の小鳥としても抗議だよ」
「ごめんね」
エイヴァは少しだけリリィの指に頭を寄せた。嫌がるふりをしながら、逃げない。
俺は役場裏の戸を見た。
白い馬車。欠けた翼の印。日報の写し。
門番は知らない。店主も知らない。だが、町の奥には知っているやつがいる。
「戻るぞ」
「柵へ?」
「ああ。ここで話すのはまずい」




