第18話-1◆飯を食え
右の裂け目から、白い飴の匂いが流れていた。
甘い。
だが、ただ甘いだけじゃない。舌の奥に冷たい草を置かれるような、嫌な匂いだ。湿地の宿場で嗅いだものと同じ。白い馬車の子供たちが握っていた、あの包み紙と同じ。
岩の上には、青に近い糸を含んだ白布片がある。
風に揺れるたび、ほつれた糸が細く光った。
リリィはそれを見たまま、動かない。
動かないが、足の向きは裂け目の方を向いていた。今にも行きそうだ。こういう時の子供は、止まっているように見えて、もう半分走っている。
「リリィ」
「うん」
「座れ」
「今?」
「今だ」
リリィが俺を見た。目の奥が焦っている。
「でも、匂いがします。あっちに、いるかもしれない」
「ああ」
「青い糸も」
「ああ」
「だから」
「座れ」
同じことをもう一度言うと、リリィは唇を結んだ。反発したい顔だ。だが、足を一歩前に出す前に、俺が荷袋を下ろした。
黒パンを出す。硬い。昨日よりさらに硬い気がする。干し肉も少し。水袋は残りが心細い。
俺は黒パンを割って、リリィに差し出した。
「食え」
リリィは目を丸くした。
「今、ごはん?」
「今だ」
「でも」
「囮になるにも腹はいる」
言ってから、しまったと思った。
リリィの顔が少しこわばる。
エイヴァが俺の手の甲で羽をふくらませた。
「君ねえ、言葉を投げる時に石を選ぶ癖を直しな」
「今のは悪かった」
俺はすぐ言った。
リリィが少し驚いた顔をする。俺も少し驚いた。だが、訂正は必要だ。
「おまえは餌じゃない。向こうに食わせるために歩かせるんじゃない」
黒パンを持ったまま、俺は裂け目を見た。
「行くなら、こっちで決めて行く。戻るために行く。だから食え」
リリィは黒パンを見た。
硬いパン。白い飴とは似ても似つかない。甘くもない。草の冷たい匂いもしない。だが、今のリリィには、それでも喉を通りにくいらしい。
「食べられないか」
「……食べます」
「顔が食えてない」
「顔は食べません」
「そういう返しはできるんだな」
リリィは小さくむっとした。
いい。むっとできるなら、まだ戻せる。
バランが隣で優雅に荷袋を開いた。
「なら、ぼくの出番かな」
「静かにしろ」
「まだ何もしていないだろう」
「荷袋を開ける音が派手だ」
「荷袋まで華やかとは、困ったものだね」
「困ってない。腹立ってる」
バランは気にした様子もなく、布に包まれた小さなものを取り出した。
丸い焼き菓子だった。
色は薄い茶色。白くない。表面に木の実の欠片が混じっている。旅用に固く焼いたものだろう。甘い匂いはするが、白い飴の冷たい後味とは違う。普通の、腹に入る匂いだ。
それでも、俺は受け取らなかった。
「何だそれ」
「携帯菓子だよ。旅には華と糖分がいる」
「華はいらん」
「糖分はいる」
ベルニーが短く言った。
バランがぱっと顔を明るくする。
「ほら、ベルニーもこう言っている」
「菓子は見る」
ベルニーはバランの手から焼き菓子を一つ取り、匂いを嗅ぎ、少し割って中を見た。それから、ほんの欠片だけ口に入れる。
バランが少し傷ついた顔をした。
「そこまで疑わなくてもよくないかい?」
「今は疑う場所」
「ぼくの菓子だよ?」
「だから見る」
「理由になっていない気がする」
ベルニーは飲み込み、短く言った。
「普通。高い」
バランの胸が戻った。
「高いは余計だが、まあいい。さあ、リリィちゃん。白い連中の気味悪い飴とは違う。これは正しく旅人を励ますための甘さだ」
「ちゃん付けで呼ぶな」
俺が言うと、バランは肩をすくめた。
「では、リリィ。どうぞ」
リリィは焼き菓子を見て、少し迷った。
俺を見る。
俺はベルニーを見る。
ベルニーは頷いた。
「大丈夫」
「なら、少しだけ食え」
リリィは焼き菓子を受け取り、小さくかじった。
かたい音がした。
そのあと、リリィの目が少しだけ開いた。
「甘い」
「当然だとも」
バランが得意げに笑う。
「ぼくが選んだ」
「ベルニーが確認した」
俺が言うと、バランは胸に手を当てた。
「君は本当に、ぼくの功績から飾りを剥がすのがうまい」
「飾りが多い」
「そこが魅力だろう?」
「荷物だな」
「目立つ荷物」
ベルニーが付け足した。
バランは一瞬黙り、それから少し嬉しそうにした。
「昨日から、荷物扱いの中に評価が混じっている気がする」
「気のせいだ」
俺は言った。
リリィが、焼き菓子をもう一口かじった。
さっきより顔色が少し戻った。白い飴の匂いはまだ流れてくる。裂け目の奥からは、今も時々、ちり、と細い音が返る。それでも、口の中に普通の甘さが入ったことで、少しだけこちら側に戻ってきた。
エイヴァが俺の手の上で首を伸ばした。
「アタシの分は?」
「小鳥はあとだ」
「今だろう。こういう時こそ小鳥前だよ」
「小鳥前って何だ」
「小鳥に相応しい量だね」
「爪の先ほどでいいな」
「君の爪は大きいから、それでもまあ許す」
「許すな」
リリィが笑い、焼き菓子の欠片をほんの少し割った。
「エイヴァも」
「うむ。君はわかっているね」
エイヴァはえらそうに受け取ろうとして、くちばしでうまくつまめず、欠片を岩の上に落とした。
白い小鳥が一瞬固まる。
俺はそれを拾い、埃を払って差し出した。
「小鳥賢者」
「今のは風が悪い」
「風は吹いてない」
「君は細かいねえ」
「食え。落とすな」
エイヴァは不満そうにしながら、今度はちゃんと食べた。
リリィはその様子を見て、黒パンにも手を伸ばした。焼き菓子だけでは腹はもたない。俺が差し出した黒パンを受け取り、水を少し飲む。
ゆっくりだが、食べている。
よし。
「全部じゃなくていい」
俺が言うと、リリィは首を横に振った。
「食べます。条件だから」
「まだ条件にしてない」
「でも、グローはそう言う顔してた」
俺は右耳の欠けをかいた。
「面倒な見方を覚えたな」
「見てたから」
リリィはそう言って、黒パンをもう一口かじった。
噛むのに時間がかかる。喉を通すのにも時間がかかる。それでも食べる。
ただの食事だ。
だが、こういう場所では、それが一番大事になる。
腹が空いていれば、怖さに引っ張られる。水が足りなければ、判断が細る。靴の布がずれていれば、一歩で崩れる。戦いも、逃げることも、助けることも、全部そこから悪くなる。
派手な魔法より、飯と水と靴だ。
それを軽く見るやつから死ぬ。




