第17話-4◆右の裂け目
だが、その笑みはすぐに消えた。
右の裂け目の奥から、細い音が返った。
ちり、りん。
リリィの足元の砂ではない。
俺たちの誰も踏んでいない。
向こうで、何かが鳴った。
その音に混じって、風が裂け目から戻ってくる。
甘い匂いがした。
白い飴の甘さだ。
だが、ただ甘いだけじゃない。後から草のような冷たい匂いが鼻の奥に残る。湿地の宿場で嗅いだものと同じ、子供を静かにさせる嫌な匂い。
リリィの顔が強張った。
「この匂い……」
「ああ」
俺も覚えている。
忘れたくても、こういう匂いは残る。
ベルニーが裂け目の入口へ近づいた。砂は踏まない。岩の出っ張りだけを使い、矢の先で影の奥を探る。
何かを引っかけた。
白い布端だった。
薄い。子供用外套の裏地に使うような布だ。端が裂け、細い糸が二本ほどほつれている。
その糸のうち一本は、青に近かった。
リリィが息を止める。
俺はすぐに言った。
「断定するな」
先に止めた。
リリィは俺を見る。
「まだ、言ってない」
「言う顔だった」
「……うん」
ベルニーが布端を岩の上へ置く。
リリィは触らず、じっと見る。触りたいのを我慢しているのが、指の形でわかった。
「里の縫い方と、似てる」
「同じか?」
「まだ、わからない」
今度は、リリィが自分で言った。
俺は短く頷いた。
「よし」
リリィの目が少し揺れた。
「今のも?」
「ほめた」
「……うん」
リリィは布端から目を離さない。
青に近い糸。
白い飴の匂い。
右の裂け目の奥から返った音。
音だけじゃない。
今度は、物がある。
追う理由が、砂の上に置かれた。
ベルニーが弓を戻した。
「通ったのは最近」
「わかるのか」
「布が乾ききってない。匂いも残ってる」
バランが低く言う。
「なら、近いね」
声から軽さが少し消えていた。
「君たちが騒がなければ、だろう?」
「それはこっちの台詞だ」
「ぼくは今、騒いでいない」
「珍しいな」
「褒めたね?」
「報告だ」
リリィが小さく息を吐いた。
右の裂け目の奥は暗い。
子供が通れる細さ。荷車は無理。だが、白い巡礼団が子供を測るなら、むしろ都合がいい。大人が一人ずつ連れて行き、音を鳴らし、反応を記録する。
嫌な想像は、いくらでもできる。
谷の奥で、また音がした。
ちり。
りん。
弱い。遠い。けれど、消えない。
リリィが息を吸った。
「返事……」
「まだわからん」
「でも」
「わからん」
俺は強く言った。
リリィは口を閉じた。けれど、目は裂け目から離れない。
わからない。
そう言い続けるのは、時に残酷だ。だが、ここで「オリビアかもしれない」と言えば、リリィはどれだけ痛くても進む。俺が止めても、心だけ先に走る。
それはだめだ。
ベルニーが砂を見た。
「右へ行くなら、鳴る場所が二つ」
「避けられるか」
「一つは無理」
「またか」
「谷がそういう形」
エイヴァが羽をしぼませたまま、俺の手の甲で丸くなる。
「無理に避けるより、どう鳴らすかを決めた方がいい」
「おまえもか」
「アタシだって、リリィを歩かせたいわけじゃないよ」
エイヴァの声が少し低くなった。
「でも、助けるなら、まず鳴らし方を知らなきゃならない。あの砂は、こちらが何者かを勝手に覚える。なら、こっちは何を覚えさせるか決める必要がある」
「リリィを使う話に聞こえる」
「使わせる話じゃない。使われないための話だよ」
俺は黙った。
腹は立つ。
だが、同じではない。
白い連中に測られるのと、こちらが条件を決めて一歩踏むのは、同じではない。そう思いたいだけかもしれないが、それでも違いは作れる。
リリィが両手を握った。
「わたしが歩けば、向こうも鳴るかもしれません」
「だめだ」
即答した。
リリィは驚かなかった。わかっていた顔だ。
「でも、石だと弱かった。布でも、きっと弱い。わたしの時だけ、向こうが返した」
「だからだめだ」
「どうして」
「敵も返すからだ」
リリィの顔が揺れた。
「おまえが子供たちを探す音は、敵がおまえを探す音にもなる」
言ってから、息を吐いた。
もう少しやわらかい言い方はあったかもしれない。
だが、ここでは嘘を混ぜられない。
リリィは下を向いた。手の白線は薄い。けれど、まだ残っている。
「……わかってる」
「なら」
「でも、置いていかれる子の方が、もっと怖いと思う」
谷の風が吹いた。
白い包み紙が、岩の上でかすかに動いた。黒い点が四つ。短い線。名前の代わりにつけられた何か。
右の裂け目からは、白い飴の冷たい匂いがまだ流れてくる。
青に近い糸の混じった布端が、岩の上で小さく震えた。
俺はリリィを見る。
小さい。
疲れている。
怖がっている。
それでも、見ている。
守られるだけでは嫌だと、前から言っていた。今はそれが、言葉だけではなくなっている。
俺は縄を握り直した。
「今は歩かせない」
「グロー」
「今は、だ」
リリィが顔を上げた。
「やるなら、飯を食って、水を飲んで、足の布を直してからだ。縄も一本じゃ足りない。戻る合図も決める。バランの口も縛る」
「最後は不要じゃないかい?」
「必要」
ベルニーが言った。
「ベルニー?」
「音が増える」
「ぼくの声はそんなに響くかい?」
「響く」
「そこは少し嬉しい」
「喜ぶな」
俺は低く言った。
リリィは目をぱちぱちさせたあと、小さく笑った。今度は少しだけ、ちゃんと笑えた。
「ごはん、先なんですね」
「囮になるにも腹はいる」
言ってから、自分で嫌な言葉だと思った。
リリィも少しだけ顔をこわばらせる。
俺はすぐに言い直した。
「違う。おまえは餌じゃない」
リリィが俺を見た。
「おまえが歩くなら、作戦として歩く。こっちで決める。向こうに鳴らされるんじゃない」
エイヴァが片目を開けた。
バランが黙った。
ベルニーも、何も言わなかった。
谷の奥で、また音がした。
ちり。
りん。
弱い。遠い。けれど、消えない。
リリィはその音を聞き、怖そうに唇を結んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
「……うん」
小さな返事だった。
俺は縄を畳み、リリィの手に触れないように外套の端を直した。
「勝手に鳴るな」
「うん」
「鳴らすなら、こっちで決める」
谷の砂は、まだ細く震えていた。
名前を呼ばずに、音だけを覚えるように。
右の裂け目から、白い飴の匂いが流れてくる。
岩の上には、青に近い糸を含んだ白布片が残っている。
俺たちはその手前で、いったん足を止めた。
進む理由は、もう音だけではなかった。




