第17話-3◆わからないまま持て
リリィが俺を見る。
俺は水袋を出し、口元へ渡した。
「飲め」
「今?」
「今だ。鳴ったあとに倒れるな」
「倒れません」
「さっきよりは信用する」
「少しだけ?」
「少しだけ」
リリィはむっとしかけて、水を飲んだ。
その顔が、少しだけいつもの顔に戻る。
エイヴァが俺の肩から飛び、リリィの近くの岩に降りた。足元の砂には触れない。そこはちゃんとわかっている。
「手を見せてごらん」
「うん」
リリィが手を出す。
エイヴァはくちばしで白線の近くをつつくふりをした。触れてはいない。けれど、羽の先に小さな光がにじむ。
「温めるだけだよ。散らすんじゃない。無理に散らせば、逆に砂が覚える」
「砂が、覚える……」
リリィが呟いた。
エイヴァは羽を少しふるわせた。生活魔法の小さな光が、リリィの手の周りだけをぬるく包む。白線は少し薄くなった。だが、エイヴァの羽もしぼんだ。
「やりすぎるな」
「わかっているよ。君に言われる前にね」
「落ちるなよ」
「小鳥は落ちない」
言った直後、エイヴァは岩の上で少しよろけた。
俺は手を出した。
エイヴァが俺の手の甲に乗る。
「……着地を少し間違えただけだよ」
「三回目だ」
「数えるんじゃない」
「仕事だからな」
「何の仕事だい」
「落ちる鳥の管理」
リリィが少し笑った。
よし。
怖さだけで終わらせない。笑えるなら、まだ進める。
ベルニーが砂の方へ目を戻した。
「見て」
俺は立ち上がる。
リリィが踏んだ場所の周りに、砂の模様が残っていた。
足跡ではない。
小さな輪が二つ。片方は薄く、片方は欠けている。欠けた方の縁だけが白く乾き、細い線になって砂の表面に浮いていた。
その欠け方が、リリィの手に浮いた白線と妙に似ていた。
鳥の羽にも、欠けた輪にも見える。あるべき片側を失ったような形。
ただの跡ではない。
砂が、リリィの中から何かを写し取ったみたいだった。
「足跡じゃないな」
「音の跡だね」
エイヴァが俺の手の上で言った。
「名前の代わりに、響きを残している」
「名前じゃなくて?」
リリィが聞く。
「白い連中は、ずっとそうしているだろう。名前を返す、名前を整える、いい子に数える。耳触りの良い言葉ばかりだ。でも、扱っているのは名前じゃない。点だの線だの、響きだの、反応だのだ」
エイヴァの声に、いつもの皮肉が少しだけ戻った。
「子供を子供として呼ばない仕組みは、だいたいろくでもない」
俺は砂の線を見た。
その近くに、白い包み紙が落ちていた。端が砂に埋もれている。内側に黒い点。爪でこすったような跡。
リリィが気づいて、膝をつきかけた。
「待て」
俺が止めると、リリィはすぐに止まった。
「砂に触るな」
「うん」
ベルニーが矢の先で包み紙を引っかけ、岩の上へ寄せた。手慣れている。
リリィはそれを覗き込む。
「これ、前のと似ています」
「黒い点か」
「うん。でも、数が違う。こっちは……四つ」
包み紙の内側には、小さな黒い点が四つ。それから、点の横に短い線が一本ずつ引っかかれている。
バランが眉を寄せた。
「子供の数か?」
「わからない」
ベルニーが言う。
「鳴らした回数かも」
リリィの喉が動いた。
「歩かせたんじゃなくて、鳴らした?」
その言い方が、嫌に合っていた。
歩かせる。
運ぶ。
測る。
鳴らす。
人に使う言葉じゃない。だが、白い巡礼団がやりそうな言葉だ。
俺は荷車跡の横を見た。
小さな足跡はある。だが、続いていない。途中で途切れ、また別の場所に少しだけ出ている。子供が歩いたというより、荷車から降ろされ、決まった場所に立たされ、また戻されたような跡だ。
ベルニーが短く言った。
「測り場」
「ここがか」
「一つ目」
一つ目。
つまり、谷の中にまだある。
リリィが包み紙を見つめたまま言った。
「名前じゃなくて、音で覚えられてるみたい」
谷の奥で、また小さく鳴った。
ちり。
今度は誰も動いていない。
リリィの肩が跳ねた。
俺はすぐ外套でリリィの前に立った。
「奥か」
「そう」
ベルニーが弓を持ち直す。
「近くない。でも、返ってる」
バランは剣の柄に手を置いた。顔は笑っているが、目は笑っていない。
「敵が聞いているなら、こちらも聞かせてやる手はあるね」
「派手に鳴らすな」
「まだ言ってないだろう?」
「顔が言ってる」
「君たちは本当に、ぼくの顔に厳しい」
「派手」
ベルニーがまた刺す。
バランは少しだけ肩を落とした。
「せめて言葉を変えてくれないか」
「目立つ」
「同じだ」
リリィが笑いかけて、すぐ手の白線を押さえた。
笑いきれない。
それでも、笑おうとした。
俺は水袋をもう一度渡す。
「飲め」
「さっき飲んだ」
「もう一口」
「グローも」
「俺はあとでいい」
「また」
リリィが少しだけ睨んだ。
俺は黙って水袋を受け取り、一口だけ飲んだ。中身は少ない。だが、今ここで意地を張る話でもない。
リリィは満足そうに、ほんの少しだけ頷いた。
エイヴァが俺の手の上で呆れた声を出す。
「子供に飲まされる保護者とはねえ」
「俺は保護者じゃない」
「そうだね。縄を巻いて、足を見て、水を飲ませて、砂に近づけないだけの通りすがりだ」
「鳥が一番態度でけえな」
「小さいから許されるんだよ」
「許してない」
バランが小さく笑った。
「いいじゃないか。ぼくは少し安心したよ。君が保護者でないなら、この隊の責任者はぼくでも――」
「ない」
「早い」
「なら、ぼくは何だい?」
「目立つ荷物」
「扱いが悪い」
「高い縄つきだ。いい荷物だろ」
バランはなぜか少し嬉しそうにした。
「高い縄は評価された」
「そこだけ拾うな」
ベルニーが短く言った。
「うるさい」
バランがすぐ口を閉じた。
谷奥で、また細い音。
今度は弱い。
だが、リリィだけが強く反応した。手の白線が、薄く浮く。
「こっちじゃない」
リリィが言った。
「何が」
「今の音。奥だけど、まっすぐじゃない。右の方」
俺はすぐに谷の右壁を見る。
岩がせり出している。影が深い。荷車が通るには狭いが、人なら通れる細い裂け目がある。
ベルニーも見ていた。
「ある」
「通れるか」
「人は。荷車は無理」
「子供は?」
「通れる」
それが嫌だった。
白い巡礼団が荷車を奥へ進め、子供だけを別の測り場へ移した可能性がある。もしくは、子供の反応だけを別の場所で鳴らした。
リリィは右の裂け目を見つめている。
「向こうに、いるかもしれない」
「かもしれない、だ」
俺は言った。
「断定するな」
「うん」
「行くにしても、今すぐ走らない」
「走らない」
「勝手に踏まない」
「踏まない」
「痛かったら」
「言う」
「怖かったら」
「言う」
「バランが変なことを言ったら」
「……止める?」
「離れろ」
「そこまでかい?」
バランが抗議する。
リリィが今度こそ少し笑った。




