第17話-1◆石を投げる
砂は、まだ鳴っていた。
足を止めているのに、谷底のどこかで細い音が残っている。
風の音ではない。虫でもない。石が転がる音とも違う。耳の奥に入ってきて、こっちの骨の中を確かめるような、嫌な響きだった。
俺は岩の縁に足を置いたまま、谷の奥を見た。
白い巡礼団の荷車跡は、砂の上に薄く続いている。だが、まっすぐではない。途中で深くなり、途中で浅くなり、ところどころ岩陰へ逃げるように曲がっている。
追える。
追えるが、踏み間違えれば向こうにも知られる。
そういう道だ。
「……面倒だな」
「今さらだねえ」
肩の近くで、エイヴァが羽をふくらませた。
白い小鳥のくせに、こういう場所では妙に目だけ鋭い。崖を下りた疲れも残っているはずだが、くちばしはいつも通りよく動く。
「君の人生、だいたい面倒でできているじゃないか」
「材料にされた覚えはない」
「なら、今からでも名札をつけておやり。面倒一号、とか」
「鳥の方が先だな。口がうるさい」
「失礼な。アタシは役に立つうるささだよ」
リリィが少しだけ笑った。
笑い方は小さい。けれど、笑えたならいい。
さっき崖を下りる時、リリィは落ちかけた。バランの縄とベルニーの矢がなければ、俺の腕だけでは足りなかった。本人もそれをわかっているのか、今も俺の外套の端をつかむ指に力が入っている。
足も来ている。
中古の靴は前よりましだが、谷に入る前の崖道で布がずれた。かかとの浮きもある。さっき直したが、万全じゃない。
「リリィ」
「うん」
「足」
リリィは一瞬、いつもの顔を作りかけた。
だいじょうぶ、と言う顔だ。
俺が見ると、言葉が喉で止まった。
「……少し、痛い」
「よし」
「よし、なの?」
「隠さなかったからな」
リリィは目を丸くしたあと、少しだけ困った顔をした。
「痛いのに、ほめられた」
「そこはほめてない」
「でも、よしって言った」
「面倒な聞き方を覚えたな」
エイヴァが「ちちっ」と鳴いた。笑っている。
俺は荷袋から細い布を出し、リリィの足元へしゃがんだ。
「座れ」
「ここで?」
「立ったままだと余計ずれる」
リリィは岩の上に腰を下ろした。谷底の砂には触れない位置だ。俺は靴紐をゆるめ、かかとの布を引き直す。
指先に砂がついている。細かい。乾いているのに、どこか湿った感じがする。爪の間に入り込んで、落ちにくい。
「この砂、嫌いです」
リリィがぽつりと言った。
「好きなやつがいたら距離を取れ」
「バランさんは好きそう」
「聞こえているとも」
少し離れた岩の上で、バランが胸を張った。
崖を下りたあとだというのに、まだ妙に姿勢がいい。服は汚れている。髪も乱れている。だが、本人だけはそれを苦労ではなく演出だと思っていそうな顔をしていた。
「ぼくは嫌いなものでも美しく扱える男だよ」
「砂に好かれるなよ。音で居場所を売る」
「君は本当に、ぼくを褒める時も刺すね」
「褒めてない」
「だろうね」
バランは爽やかに笑った。
その横で、ベルニーが砂の方を見ている。膝をつき、指先で荷車跡の縁をなぞっていた。弓は背中。矢筒はすぐ取れる位置。動きが少ないぶん、見ているものが細かい。
「二台」
ベルニーが言った。
「あ?」
「荷車。二台。片方が軽い。片方が重い」
俺はリリィの靴紐を結びながら、砂を見る。
確かに、轍の片方だけ深さが違う。谷の風で崩れているが、完全には消えていない。重い方は、車輪の沈み方が一定じゃない。何か硬いものを積んでいる。
「白い箱か」
「たぶん」
ベルニーは短く答えた。
「子供は?」
「歩かせた跡が少ない」
その言い方に、リリィの指が外套を握った。
俺は靴紐を結び終え、軽くつま先を叩く。
「立てるか」
「うん」
リリィが立つ。少しだけ足を確かめるように動かした。
「前より、いい」
「痛ければ言え」
「言う」
「今みたいに」
「うん」
返事は小さいが、逃げてはいない。
俺は立ち上がり、谷の奥を見た。
鳴り砂の谷。
名前だけなら、まだましだった。
踏めば鳴る。大きな音を出せば敵にばれる。そういう単純な場所なら、足を選べばいい。重い荷物を減らせばいい。俺が先に歩き、リリィを岩の上に通せばいい。
だが、この砂は足音だけを拾っていない。
さっき、白い布端にリリィが触れた時、手の白線が痛むように光った。谷の奥で、鈴のような音が返った。
こちらが見ているだけでは済まない。
向こうも、こちらを聞いている。
「岩縁を行く」
俺は言った。
「砂は踏むな。どうしても踏む時は、先に俺が見る。リリィは俺の後ろ。エイヴァは黙ってろ」
「最後だけ雑じゃないかい」
「大事だ」
「大事なら、もっと丁寧に頼みな」
「黙れ」
「ほら雑」
バランが笑った。
「仲がいいねえ、君たちは」
「良く見えるなら目を洗え」
「この谷の砂で?」
「やめとけ。目まで鳴るぞ」
リリィがまた小さく笑った。
その笑いに、谷底の砂がほんのかすかに震えた気がした。
俺はすぐ手を上げた。
「止まれ」
全員が止まった。
バランも、今回はふざけなかった。そこは少しだけ信用していい。
谷の奥から、遅れて細い音が返る。
ちり、と。
鈴の先を爪で弾いたような音だった。
リリィの顔がこわばる。
「今の……」
「おまえか?」
「わからない。でも、耳の奥が、変」
リリィは耳を押さえた。長い耳の先が震えている。
俺は谷の奥を見た。
見えない。
岩と砂と、曲がった谷の影だけだ。白い巡礼団の姿も、荷車も、子供も見えない。だが、音だけが奥から返ってくる。
「エイヴァ」
「大きな声は出さないよ」
エイヴァは俺の肩で首をかしげた。小鳥の仕草なのに、声だけは低い。
「この砂、ただの鳴り砂じゃない。音に混じった魔力の揺れを拾っている。足の重さより、器の形に反応しているね」
「器?」
「体の中を通るものの形さ。魔力でも、血でも、名前でも、人は何かしら流している」
「名前まで流すのか」
「年寄りの言い方だよ。いちいち噛みつくんじゃない」
「なら、わかる言い方にしろ」
エイヴァはくちばしで羽を整えた。少しだけ迷っている仕草だ。
「足跡を覚える砂じゃない。鳴った者を覚える砂だ」
リリィが唇を結んだ。
「わたしのことも?」
「今、少し覚えたかもしれないね」
俺はエイヴァを見た。
「嫌な言い方をするな」
「良い言い方にしたら安全になるのかい」
「ならん」
「なら、嫌なままでいい」
腹は立つが、間違ってはいない。
俺は谷の岩縁を見た。進める場所はある。ただし、ずっと岩だけではない。途中で砂がせり上がり、岩が切れている。
あそこを越えないと、荷車跡の続きは追えない。
「ベルニー」
「ある」
俺が聞く前に、ベルニーが答えた。
「途中で岩が切れる。三歩分。軽い者なら一歩半」
「渡れるか」
「鳴る」
「鳴らさずには?」
「無理」
短い。だが、十分だ。
バランが剣の柄を軽く叩いた。
「なら、ぼくが先に行こう。華麗な一歩で音を抑えて――」
「やめろ」
俺とベルニーの声が重なった。
バランが眉を上げる。
「二人同時に止めるほどかい?」
「派手」
ベルニーが言った。
「ぼくの長所だね」
「ここでは欠点」
「言葉に遠慮がないな、ベルニー」
「事実」
バランは少しだけ傷ついた顔をした。たぶん半分は本気だ。
エイヴァが肩の上で羽をふくらませる。
「試すなら、小石からだね。人で試すほど財布に余裕はないだろう」
「財布に余裕があれば人で試すのか」
「君は話の拾い方が悪い」
「元の話が悪い」
俺は足元の小石を拾った。指先ほどの軽い石だ。
投げる前に、全員へ目を向ける。
「動くな」
リリィがうなずく。ベルニーも。バランは片手を上げた。
「ぼくまで子供扱いかい」
「子供より動くからな」
「ひどい」
「当たってる」
ベルニーの追撃で、バランが黙った。
俺は小石を、岩が切れた先の砂へ投げた。
石は軽く弧を描き、白っぽい砂の上に落ちた。
ちん。
思ったより澄んだ音が鳴った。
すぐには終わらない。
砂の下を細い震えが走り、音が二つ、三つと横へ広がった。谷の壁に当たり、奥へ流れていく。
少し遅れて、遠くから返る。
ちり。
全員が黙った。
バランの顔からも、さすがに笑みが薄くなった。




