第16話-3◆手が増えた
ようやく崖下へ足が着いた時、リリィは膝から崩れかけた。
俺は肩を支える。
「座るな。まず岩の上」
「砂の上じゃだめ?」
「まだわからん」
数歩先に平たい岩がある。そこまで連れていき、座らせる。リリィは息を整えながら靴を見た。かかとの布はまたずれていた。
「やっぱり、ずれました」
「直す」
「今?」
「今」
「追うんじゃ」
「足を潰したら追えない」
俺は靴紐を解き、布を噛ませ直した。指に砂が入る。細かい。嫌な砂だ。
上からバランが降りてきた。最後に軽く飛び降りようとして、ベルニーに袖をつかまれる。
「普通に下りて」
「華麗に着地するところだったのに」
「落ちる人もそう言う」
「君は本当に夢がないな」
「生きる方が大事」
正しい。
正しいが、バランの顔が少し残念そうだったので黙っておく。
バランが自分の手を払った。
「しかし、見ただろう。ぼくの縄と腕はなかなかだった」
「縄はよかった」
ベルニーが言った。
バランが顔を明るくする。
「腕は?」
ベルニーは少しだけ間を置いた。
「……落とさなかったから、よかった」
バランは片手を胸に当てた。
「今のは褒め言葉として受け取るよ」
「事実」
「君の事実は、たまに優しいね」
「たまに」
ベルニーはそれ以上言わなかった。
だが、バランは妙に満足そうだった。
全員が崖下へ降りた。
そこから先は、谷だった。
鳴り砂の谷。
名前だけ聞けば、少し綺麗な場所に思える。実際に踏むと、綺麗どころではなかった。
俺は砂へ足を置いた。
きゅ、と小さく鳴る。
鳥の声にも似ている。だが、音がすぐ消えない。足を離したあとも、砂の下で細く残る。もう一歩踏むと、前の音と重なって、耳の奥で嫌な揺れになった。
砂の音が消える前に、谷の奥で何かが細く鳴り返した。
リリィが耳を押さえる。
「……今の、向こうにも聞こえた気がします」
「気のせいで済めばいいな」
俺は足をどける。
砂の下の音は、まだ少し残っていた。こちらの足音を、谷が覚えているみたいだった。
リリィは顔をしかめたまま、布を巻いた手を押さえる。
「砂が、鳴ってます」
「ああ。足音が長い」
エイヴァが布の中から顔を出した。
「鳴り砂だよ。音だけじゃない。揺れも拾う。魔力のざわつきまで砂の下へ響く」
「長い説明はいい。どう歩く」
「静かに、ゆっくり、重さを散らして。あと、バランを黙らせる」
バランが胸に手を当てた。
「ぼくはまだ何もしていないよ」
ベルニーが即答する。
「立ってるだけでうるさい」
「ひどいな」
「事実」
「君までグローみたいな言い方を」
「俺を混ぜるな」
バランは一歩踏み出した。
砂が大きく鳴った。
全員が見た。
「……なるほど」
「なるほどじゃない」
「優雅に歩けば消えるかと」
「消えてない」
ベルニーが短く言う。
バランは少しだけ肩を落とした。
「ぼくの足音が目立つのは、普段なら長所なんだが」
「ここでは短所だ」
「君は本当に遠慮がない」
「急ぐぞ」
ベルニーが砂に膝をつき、荷車跡を見た。砂が細かいため、車輪跡はすぐ崩れる。だが、重いものが通った深さは残っていた。
「荷車。二台」
「巡礼団か」
「たぶん。片方に四角い重い荷」
「白い箱か」
「箱か、箱を積んだ台」
近くに白い布端が落ちていた。古いものではない。砂に半分埋もれている。さらに少し先には、白い飴の包み紙。風で転がったにしては、折り目が新しい。
リリィが立ち上がろうとした。
「待て」
俺は先に布端を拾い、匂いを嗅ぐ。草のような冷たい匂いがかすかに残る。白い飴と同じだ。
「これ、あの飴ですか」
「たぶんな」
「子供たちに、また食べさせてる」
リリィの声が低くなる。怖さより怒りが出ている。だが、足元はまだふらついている。
「座ってろ」
「でも」
「見たいなら、座って見ろ」
リリィは少しだけ唇を尖らせた。
「それ、前にも言われました」
「効くからな」
「座ります」
素直に座った。むくれているが、座った。えらいのか不満なのか、両方だろう。
エイヴァが俺の胸元から這い出し、リリィの膝へ移った。少し飛ぼうとして、飛べずに落ちるように移動した。
「エイヴァ、大丈夫?」
「重力が少し失礼だっただけさ」
「重力のせいにするな」
「小鳥に優しくない谷だねえ」
リリィがエイヴァを両手で包んだ。強すぎない。少し慣れてきている。
その時、下流側から鈴の音が返った。
一度。
砂の下を通るように、細く伸びる。
リリィの布を巻いた手が、白く滲んだ。白線が浮いた瞬間、リリィの顔が少し歪む。
音が痛い、という顔だ。
俺はすぐ気づいた。リリィも気づいた。彼女は手を押さえる。
「グローさん」
「ああ」
「白線が、少し……あっちに引かれてます」
「言うな」
「でも」
「聞いた。使うとは言ってない」
リリィは口を閉じた。
怒ったわけではない。止めたのだと、わかっている顔だった。それでも悔しそうだ。
エイヴァが低く言う。
「使われるのと、使うのは違う。そこを間違えると、向こうの思うつぼだよ」
バランが砂の上で腕を組んだ。
「なら、こちらが先に考えればいい」
「おまえが言うと勢いに聞こえる」
俺が言うと、ベルニーが短く刺す。
「でも必要」
「余計だ」
「事実」
似たような言葉ばかり増える。面倒な隊列になってきた。
だが、悪くない。
ベルニーは足跡を見る。バランは上から持ってきた縄を巻き直す。エイヴァはしぼんだ羽を整えながら、砂の音を聞いている。リリィは座ったまま、自分の手と谷奥を交互に見ている。
役割がある。
さっきまで、俺たちは別々に追っていた。競争だの、邪魔だの、通行札だの、危険値だの、面倒なものばかりだった。
今は少し違う。
手が足りない場所で、手が増えた。
それだけだ。
それだけだが、崖を下りるには十分だった。




