第02話-1◆腹が減ったままの朝
夜明け前の柵の中は、町の外というより、町が吐き出した息だまりみたいだった。
湿った土の匂い。古い焚き火の灰。誰かのいびき。壁の向こうから漂ってくる焼きたてのパンの匂い。腹が減っている時に嗅ぐには、性格の悪い匂いだ。
俺は壁に背を預けたまま、目だけ開けた。
寝た気はしない。右手は斧の柄に届く位置に置いたまま。左側には荷袋。膝の近くにはリリィ。外套の内側に丸まって、細い肩を小さく上下させている。
その外套の端で、白い毛玉がさらに丸くなっていた。
「……おい」
「ぴ」
「起きてるだろ」
「ぴるる」
「普通の小鳥は、寝ぼけたふりで誤魔化さない」
エイヴァが片目だけ開けた。小鳥のくせに、目つきだけ妙に年寄りくさい。
「君ねえ、年寄りを夜番に使っておいて、朝一番に文句かい」
「年寄りなら、朝は早いだろ」
「見た目は一歳の小鳥だよ。いたわりな」
「都合で歳を変えるな」
エイヴァはふくらんだまま、くちばしで羽を整えた。昨日の夜、少しだけ生活魔法でリリィの指先を温めていたせいか、まだ羽がしぼみ気味だ。
俺は柵の外へ目をやる。
危険者待機柵の見張りは、眠そうな門番に交代していた。壁の向こうの門はまだ開いていない。だが、露店の連中は早い。町に入れない者相手に、水や固いパンを割高で売る商売だ。人が困っているところに値段を乗せる腕だけは、どこの町も上手い。
荷袋の中には、昨日の泥牙猪の魔石が一つ。
大した額にはならない。食料と水を少し買えば終わる。子供用の靴も、服も、宿も、夢の向こうだ。
俺は右耳の欠けをかいた。
「面倒だな」
「朝からそれかい。景気がいいねえ」
「景気がよければ言わん」
リリィが外套の中で小さく動いた。
「……グローさん?」
「起きたか」
「うん。……ここ、まだ柵?」
「まだ柵だ」
リリィは寝ぼけた目で周りを見て、少しだけ肩を落とした。けれど、すぐに顔を上げる。いい子の顔を作ろうとしている。
そういう顔は、だいたい危ない。
「だいじょうぶです」
「聞いてない」
「先に言いました」
「先に言うな。余計怪しい」
リリィは少し困った顔をしたあと、外套を両手でたたんで俺に差し出した。
「ありがとう。あったかかったです」
「ああ」
「グローさんは寒くなかった?」
「寒いより腹が減った」
「それ、昨日も言ってました」
「昨日から減ってる」
リリィが小さく笑った。
その顔を見てから、俺は立ち上がった。膝が鳴る。壁にもたれて寝るのは慣れているが、子供と小鳥を内側に置いて寝るのは慣れない。意識が外へ向きっぱなしで、肩が重い。
柵の出入口には門番がいた。
「出るぞ」
「日中だけだ。赤札持ちは門から離れすぎるなよ」
「露店までだ」
「町に入れるわけじゃねえからな。保証人か預かり金が出るまで、おまえは柵の客だ」
「客の扱いじゃないな」
「だから揉めるなよ」
「相手次第だ」
「揉める気じゃねえか」
門番は嫌そうに木戸を開けた。
危険者待機柵は、一晩待てば町に入れる順番待ちではない。金か保証人か、役場の気まぐれでも出ない限り、赤札持ちは門の外に置かれたままだ。
俺が外へ出ると、近くにいた流れ者たちが自然と距離を取った。昨日、丸太を片手でどかしたのは効いたらしい。便利だ。礼儀より早い。
リリィは俺の少し後ろを歩く。靴の先が傷んでいる。昨日より泥が増えた。そろそろ本当に限界だ。
エイヴァはリリィの肩で丸くなり、首だけ左右に動かしている。普通の小鳥のふりをしているが、見ている場所が露店の品より人の手元ばかりだ。
「水。黒パン。できれば針と糸」
「靴は?」
リリィが訊いた。
「今日は無理だ」
「うん」
返事は素直だが、視線は露店の端に吊るされた子供靴へ一瞬だけ行った。茶色の小さな靴。中古だが、今のリリィの靴よりはずっとましだ。
俺は見なかったふりをした。
見なかったことにしないと、足がそっちへ向く。足が向いても金がない。金がないのに値段を聞けば、余計に腹が立つ。
「まず水だ」
「はい」
「あと、おまえは変な商人の言うことを信じるな」
「変な商人って、どう見分けますか」
「目が笑っていて、手が忙しいやつ」
「バランさんみたいな?」
「違う。あれは全身が忙しい」
リリィが真面目に考え込んだ。
「全身が忙しい……」
「覚えなくていい」
エイヴァがリリィの肩で小さく「ちちっ」と鳴いた。笑ったな。
露店の一つで、泥牙猪の魔石を見せる。
店主は髭の薄い中年男だった。片目が細い。置いてあるのは硬そうな黒パン、干し肉、水袋、古びた針、糸、割れた皿、用途のわからない金具。町に入れない連中向けの、ごみと生活必需品の境目だ。
「泥牙猪か。小さいな」
「大きさは見ればわかる。値を言え」
「銅貨四枚」
「六」
「この傷で?」
「魔石に傷はない」
「泥臭い」
「匂いで使うのか」
店主は鼻を鳴らした。
「五枚。水袋なしならな」
「水をつけろ」
「なら四枚」
「パン二つ、水、針と糸。銅貨は残りでいい」
「足りねえよ」
「猪に追われたやつが町の方へ走ってる。昨日の夕方あたりだ。門前で騒ぎが出る前に柵の外を片付けたいなら、見張りに言っとけ」
店主の目が少し動いた。
リリィが見つけた足あとだ。使えるなら使う。情報も売り物だ。
「……子供の足か?」
「小さい。つま先が外を向いてた。急いでる」
リリィが小さく付け足した。
店主は初めてリリィをちゃんと見た。長い耳、傷んだ服、疲れた顔。それから俺を見る。
「その子が見たのか」
「ああ」
「へえ。目がいいな」
リリィは少し固まった。褒められると弱い。
俺は店主の手元を見た。
「で?」
「黒パン二つ、水一つ、針と糸。銅貨一枚返し」
「二枚」
「一枚だ」
「水袋の底に泥がなければ一枚でいい」
店主は嫌な顔をした。
「おまえ、見た目より細かいな」
「見た目で金勘定するやつは早死にする」
「物騒な教訓だ」
黒パン二つ。水袋。針と糸。銅貨一枚。
少ない。
だが、昨日よりはましだ。




