第12話-2◆名前を呼ばれた
リリィは盤を見つめた。
残っている片翼の線が淡く光る。空白の側は、遠くへ引かれるように揺れる。
リリィの耳が少し伏せた。
「山の方」
「山?」
「水の向こうじゃない。森の奥でもない。高いところ。風が冷たいところ。石の門みたいな……」
そこで、リリィの膝が揺れた。
「やめろ」
俺は外套を握るリリィの手ごと引いた。
白い線が一瞬強く光る。
リリィが息を詰めた。
「グローさん、手が――」
布で包んだ指先から、細い白線がにじんでいた。盤の片翼の線と同じように、手の中で光が揺れる。
俺はリリィの手を両手で包み込んだ。
「見るな」
「でも」
「手を見るな。俺を見ろ」
リリィの目が揺れ、俺の顔を見る。
近い。たぶん怖い顔をしている。だが、それでいい。盤よりこっちを見ていればいい。
「息を吐け」
「……っ」
「吐け」
「ふ、う……」
「もう一回」
「ふう……」
白い線が少し弱くなる。
エイヴァがリリィの肩で羽を広げた。広げた、といっても小さい。しぼんだ羽を無理に広げて、リリィの手の上にかざす。
「火種寄せの逆だね。少し散らすよ。痛かったら言いな」
「痛くない。冷たい」
「なら、まだましだ」
エイヴァの羽先に、小さな白い粉のような光が浮いた。リリィの手の白線が、ほんの少しぼやける。
エイヴァの体がぐらりと揺れた。
「やめろ。落ちる」
「あと少しだよ」
「やめろと言った」
「君は本当に、いいところで邪魔をするねえ」
「倒れた鳥を運ぶ手は二本しかない」
「そこかい」
「そこだ」
エイヴァはくちばしを鳴らしたが、魔法を弱めた。
リリィの手の白線はまだ残っている。だが、さっきより薄い。布で包めば隠せる程度だ。
俺はリリィの手を離さない。
「動くぞ」
「うん」
リリィは頷いたが、盤から目を離せなかった。
その時、盤の空白側が強く震えた。
白い光が一瞬だけ、小部屋の天井へ走る。線は翼の形になりかけ、途中で欠けた。
石の奥から、声にならない音がした。
誰かの声ではない。
だが、リリィがびくっと肩を跳ねさせた。
「今……」
「聞くな」
「名前を、呼ばれたみたいで」
「聞くな」
俺はリリィの耳を片手で覆った。大きい手では雑になる。力を抜く。耳を塞ぐというより、外の音を遮るだけだ。
リリィは目を閉じた。
盤が低く鳴る。
罠が起きる音だ。
ベルニーが叫んだ。
「入口、閉まる」
俺はリリィを抱え上げた。
「バラン!」
「任せたまえ!」
バランは低い天井に頭をぶつけそうになりながら、入口へ飛び込んだ。剣を抜く。今度は派手さのためではない。閉まりかける石扉の下へ刃を差し込み、腕と肩で押さえる。
「長くは無理だよ!」
「今だけでいい」
「言われなくても、今しか無理だ!」
ベルニーが入口の上を射た。
矢が細い留め具を砕く。石扉の落ちる速度が一瞬だけ鈍った。
俺はリリィを抱えたまま走る。天井が低い。肩が石に擦れる。斧が引っかかりそうになる。邪魔だ。だが捨てない。捨てたら次で困る。
「エイヴァ!」
「いるよ!」
リリィの肩にしがみついたエイヴァが鳴いた。かなり普通の小鳥に近い悲鳴だった。
「ぴぎゅっ」
「今のは何だ」
「抗議だよ!」
「元気でいい」
「よくない!」
リリィが抱えられたまま、小さく笑った。こんな時に笑えるなら上等だ。
入口の石扉の向こうへ飛び込む。
バランが歯を食いしばって支えている。顔に余裕はない。だが、目だけはまだ明るい。
「さあ、競争相手。早くしたまえ」
「助かる。腹は立つが」
「礼に毒を混ぜるのは君の作法かい?」
「そうだ」
俺が抜けた直後、バランも身をひねって転がり出た。
石扉が落ちる。
どん、と重い音。
小部屋が閉じた。
だが、それで終わらなかった。
床が揺れた。
井戸底の方から、石の割れる音が連続して響く。さっきまで遅れて返っていた音が、今度は追いかけてくる。通路の奥で、壁の線が白く光り、次々と消えていった。
「崩れる」
ベルニーが言った。
「わかりやすくて助かる」
俺はリリィを抱え直した。
「歩けます!」
「今は抱える」
「でも」
「逃げる時は軽い方が勝つ」
「わたし、軽いですか」
「軽い」
「……少し悔しいです」
「元気なのはいい。方向が悪い」
リリィは俺の首元をつかんだ。強くはない。落ちないように、ちゃんと考えたつかみ方だ。
エイヴァはリリィの肩から俺の胸元へ移ろうとして、また少しずり落ちた。リリィが慌てて片手で支える。
「エイヴァ」
「大丈夫だよ。ちょっと地面が近く見えただけさ」
「それを落ちかけたと言う」
「細かいねえ」
バランが後ろで低く笑った。
「その鳥、なかなか根性があるね」
「鳥じゃない、と言いたいところだけど、今は鳥でもいいよ」
「今は?」
「走ってから聞け!」
エイヴァの声に押されるように、全員が通路を戻った。
来る時は低く狭いだけだった道が、戻る時にはさらに悪くなっていた。床の溝から白い光が漏れ、光った場所から石が割れる。測るための線が、壊れるための線に変わっている。
俺は先頭で足場を見る。
濡れている場所。浮いた石。踏めば沈む溝。リリィを抱えている分、重心が前にずれる。足を大きく出すと天井に肩をぶつける。小さく刻む。速く、でも雑にしない。
バランが後ろで石を蹴った。
「こっちだ!」
「声が大きい」
ベルニーが言う。
「今はいいだろう!」
「少し」
「少し許された!」
「喜ぶな。走れ」
俺は思わず口元を歪めた。
井戸底への横穴が見えてくる。
そこは、リリィが潜って開けた穴の奥だ。扉がずれて低い通路になっているとはいえ、入口はまだ狭い。俺はリリィを抱えたままでは厳しい。
「下ろすぞ」
「うん」
リリィを立たせる。足が少し震えていた。
「走れるか」
「少しなら」
「少しでいい。俺が後ろを塞ぐ」
「はい」
「はいじゃなくて」
「走ります」
「いい」
リリィが先に横穴へ入る。今度は一人ではない。入口の向こうは井戸底につながっている。エイヴァが先に飛び、というより低く滑り、ベルニーがリリィの後ろを支える位置に入った。
ベルニーは短く言う。
「右足、下」
「うん」
「頭」
「はい」
「はい、いらない」
「……うん」
妙なところで噛み合っている。
バランは俺の後ろで、落ちてくる石を肩で受けそうになっていた。
「君、早く入らないのかい?」
「最後だ」
「だろうね!」
「嬉しそうに言うな」
「いや、実に君らしいと思ってね」
「褒めるな。気が散る」
「褒めているとも限らないよ」
落ちてきた小石を、バランが剣の腹で弾いた。派手だが、役に立っている。腹は立つが助かる。
リリィが横穴を抜けた。
「出ました!」




