第12話-1◆呼び水
石の盤は、何も言わない。
だが、こちらを待っているように見えた。
丸い小部屋の中央に置かれた平たい盤。その表面には文字がない。代わりに、浅い溝が何本も走っている。輪のようにも、羽の骨のようにも見える線が重なり、片側だけが欠けていた。
俺はリリィの前に腕を出したまま、低く言った。
「触るな」
「うん」
返事は早すぎなかった。
それだけで少し安心する。少しだけだ。
リリィは俺の腕の後ろから石の盤を見ている。顔色はまだ戻りきっていない。さっき横穴で扉を開けた時の冷たさが、指先に残っているのだろう。布で包んだ手を胸の前に置いている。
エイヴァはリリィの肩で丸くなっていた。丸い、というより、しぼんだ白い布団みたいだ。豆粒ほどの明かりを出し続けたせいで、羽に張りがない。
「エイヴァ」
「寝てないよ」
「聞く前に答えるな」
「君が寝ろと言う顔をしていたからね」
「言うぞ」
「ほらね」
エイヴァはくちばしで羽を整えるふりをした。だが、目は盤から離れていない。
バランが部屋の入口で腰を低くしていた。低い天井のせいで、いつもの胸を張った立ち方ができない。かなり不満そうだ。
「こういう場所は、英雄が颯爽と立つには少し配慮が足りないね」
「穴に配慮を求めるな」
「せめて天井がもう少し高ければ、ぼくの見栄えも――」
「今は見栄えより出口」
ベルニーが短く刺した。
彼女はすでに部屋の隅を見ていた。弓を下げず、床の継ぎ目、天井の割れ、壁の細い穴を一つずつ追っている。バランの後ろにいるようで、誰より場を見ている。
「出口は入口だけか」
俺が訊くと、ベルニーは首を振った。
「空気は奥から来てる」
「別の穴か」
「たぶん。狭い」
「またか」
面倒だな。
俺は盤の周りを一歩ずつ回った。足音は吸われる。さっきの井戸と違い、音が遅れて返ってこない。ここでは響きが殺されている。声を拾う場所の奥に、声を消す部屋がある。
嫌な作りだ。
盤の下には、細い溝が床へ伸びていた。床の溝は壁へ向かい、壁の線は天井へ消える。井戸の内側にあった反響線と同じ系統だ。だが、ここではもっと整っている。
使い慣れている。
そう見えた。
「エイヴァ。これは何だ」
「記録盤だよ」
「何を記録する」
「子供の器の形。声の揺れ。魔力の戻り。そういう、見えないものを無理に線へ落とす」
「わかりやすく言え」
「子供を測って、忘れないように石へ刻む道具だね」
リリィの肩が小さく動いた。
「わたしも、さっき測られたんですか」
エイヴァは答えない。
俺はエイヴァを見る。
「答えられる分だけでいい」
「……少し拾われた。完全ではない。扉を開ける鍵として、表面をなぞられた程度だよ」
「表面でも嫌です」
リリィが小さく言った。
声は震えているが、ちゃんと言葉になっていた。
俺は頷く。
「嫌なら覚えとけ」
「嫌なのを?」
「ああ。あとで流されそうになった時に使える」
リリィは少し考えた。
「嫌って、役に立つんですか」
「立つ。だいたいの罠は、嫌な感じを無視した時に踏む」
「……覚えます」
「よし」
リリィが一瞬、固まった。
「今のは、ほめました?」
「確認した」
「ほめたみたいでした」
「なら、そういうことでいい」
バランが小さく笑った。
「君たちは、こんな場所でも褒める褒めないで揉めるんだね」
「揉めてない」
「少し揉めてる」
ベルニーが言う。
リリィが困ったように笑った。怖さが消えたわけではない。だが、笑えたならまだいい。
その時、盤の表面の線が、かすかに白くなった。
全員が黙った。
俺はリリィを一歩後ろへ下げる。肩に触れるだけで、リリィはすぐ動いた。いい。勝手に前へ出ていない。
白い線は盤の片側だけを走った。欠けた翼の、残っている側。細い溝がリリィの呼吸に合わせるように、明るくなったり暗くなったりする。
「近づいただけで反応してる」
ベルニーが言う。
「なら下がる」
俺はリリィをさらに下げた。
白い線は薄くなる。
だが、消えない。
リリィが自分の胸元を押さえた。
「奥が、引っ張られるみたい」
「どこが」
「耳の奥と、胸の下。痛くはないです。でも、呼ばれてるみたいで、気持ち悪い」
「呼ばれても返事するな」
「はい」
「はいじゃなくて、返事するな」
「返事しません」
「いい」
エイヴァが羽を逆立てた。
「グロー、盤の右側を見な」
俺は視線を移す。
欠けた翼の反対側。そこにも溝はあった。だが、線が途切れている。白く光らない。空白のまま、ただ冷たく沈んでいる。
リリィに反応している片側。
反応しない片側。
そして、その空白の奥だけが、わずかに揺れていた。水面ではない。石の線そのものが、遠くから引かれるように震えている。
「もう片方か」
俺が言うと、リリィが息を止めた。
「姉さん?」
「断定するな」
自分でも少しきつい声になった。
リリィの顔が強ばる。だが、俺は言い直さなかった。ここで甘くすると、リリィは飛びつく。希望はいい。だが、罠の形をした希望は危ない。
「オリビア本人が見えたわけじゃない。声もない。布もない」
「……うん」
「だが、空白がある。遠くへ引かれてる。そこまでは事実だ」
リリィは両手を握った。
「事実」
「ああ」
「じゃあ、姉さんかもしれない、は……」
「まだ、かもしれない、だ」
「うん」
リリィは苦しそうに頷いた。
頷けた。
それでいい。
エイヴァが小さく息を吐く。
「片側だけでは完成しない。けれど、片側だけでも呼び水にはなる」
「呼び水?」
リリィが首をかしげた。
「井戸の古い言い方だよ。水を出したければ、先に少し水を入れる。そうすると、奥の水が引かれてくる」
「水じゃなくて、わたしを入れるんですか」
「嫌な言い方をすればね」
「嫌です」
「正しい」
エイヴァが珍しくすぐ頷いた。
俺は盤を見る。
片翼だけでは完成しない。
だが、片翼だけでも呼び水になる。
つまり、敵はリリィをただの予備として見ていない。オリビアを追うためにも、リリィを使える。逆もあるのかもしれない。
腹の奥が重くなった。
「こいつらは、オリビアだけを探してるんじゃない」
声に出すと、リリィの顔がさらに白くなった。
だが、言わない方が危ない。
「おまえも要る」
リリィは目を伏せる。
エイヴァが何か言いかけた。俺は手で止める。
今は、軽くする言葉では届かない。
リリィは小さく息を吸った。
「……わたし、探す側じゃなくて、探される側でもあるんですね」
「ああ」
「逃げればいいんですか」
「今はな」
「ずっと?」
俺はすぐには答えなかった。
ずっと逃げる、と言えば楽だ。だが、リリィは姉を探している。白い馬車の子供たちも見たいと言った。逃げるだけでは、たぶんこの子は納得しない。
俺も、納得できるか怪しい。
「食って、歩いて、見てから決める」
「また食べるところからですか」
「倒れたら逃げるのも怒るのも無理だ」
リリィは少しだけ口元をゆるめた。
「それは、そうです」
「そうだ」
バランが盤の反対側へ回り込もうとした。
「なるほど。では、ぼくがこの空白側を詳しく――」
「触るな」
「触らないとも。見るだけだ」
「顔が触ってる」
「顔は触れないだろう」
「おまえの場合は触りそうだ」
ベルニーがバランの外套をつかんで止めた。
「床」
短い一言。
俺は足元を見る。バランの踏み出しかけた先の床に、細い溝があった。そこだけ埃が薄い。踏めば動く。
バランも見た。
「……これは、触らなくて正解だったね」
「顔が罠に近い」
「ベルニー、今日は少し厳しくないかい?」
「いつも」
バランは黙った。
俺はベルニーに視線を送る。
「助かった」
「まだ」
ベルニーは天井を見た。
「ここ、長くいない方がいい」
「崩れるか」
「それもある。たぶん、上に知らせる音が通った」
「いつ」
「盤が光った時」
嫌な沈黙が落ちた。
移動市の奥、古井戸の底、そのさらに奥。こんな場所で盤が動けば、上の誰かが気づく仕組みくらいあってもおかしくない。
俺は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
「出るぞ」
「待って」
リリィが言った。
俺は振り返る。
リリィは盤を見ていた。目に怖さはある。だが、逃げ腰ではない。
「わたし、もう少しだけ見ます」
「だめだ」
「触りません」
「見ているだけでも呼ばれる」
「でも、空白の方が、どっちに引かれてるか……わかるかもしれない」
「わからなくていい」
「グローさん」
リリィは俺を見た。
「怖いです。嫌です。でも、ここで何も覚えなかったら、また白い人たちに先に行かれます」
白い人たち。
白い馬車。白い布。白い飴。白い外套。白い巡礼。
ろくでもない白ばかりだ。
「見るだけだ」
俺は言った。
リリィの目が少し大きくなる。
「いいんですか」
「よくない」
「また」
「よくないが、やるならこっちで決める。俺の外套をつかんだまま見ろ。手は出すな。息が乱れたらやめる。エイヴァが止めたらやめる。俺が止めたらやめる」
「うん」
「復唱」
「外套をつかむ。手は出さない。息が乱れたらやめる。エイヴァが止めたらやめる。グローさんが止めたらやめる」
「いい」
リリィは俺の外套の端を握った。
細い指が布をつかむ。俺はその手が盤に近づかない位置へ立つ。危ない側に俺。リリィは後ろ。エイヴァは肩。バランは罠の床から離れ、ベルニーは入口側を見る。
自然と形ができた。
同行ではない。だが、今は噛み合っている。




