第11話-4◆記録盤
さっきまでリリィ一人がやっと通れるだけだった横穴の先で、白い布の扉が横へずれていた。
扉の向こうには、低い通路が続いている。入口は狭いままだが、その先は少し広がっているらしい。俺がまっすぐ立つのは無理だが、肩を斜めにして屈めば進める幅はある。バランもぎりぎり通れるだろう。嫌な顔をするに違いない。
通路の奥から、薄い白い光が漏れている。
火ではない。エイヴァの生活魔法とも違う。石そのものが、ずっと昔の光を思い出しているような淡さだった。
バランが剣の柄から手を離した。
「つまり、ぼくたちは小さな勇者に道を開けてもらったわけだ」
「余計な言い方をするな」
「褒めたつもりだよ」
「つもりが派手だ」
リリィは疲れた顔のまま、少しだけ照れた。
「勇者じゃないです」
「では、小さな先導者かな」
「それも違います」
「小さな――」
「やめて」
ベルニーが止めた。
バランは口を閉じた。やはり、こいつを止めるのはベルニーが一番早い。
エイヴァは俺の手の上で、奥の通路を見ていた。
いつもの小言がない。
「エイヴァ」
「……ここは、井戸じゃない」
「見ればわかる」
「そういう意味じゃないよ」
エイヴァは羽を少しだけふくらませようとして、失敗した。しぼんだ羽が弱く震える。
「古い測定施設だ。子供の声を数え、響きを拾い、器の形を測る場所。井戸は蓋で、通路は喉だね。奥にあるのは、たぶん記録を残すための盤だ」
「測り石と同じか」
「同じ根から伸びた、もっと古い枝だよ。町の門に置かれた石なんかより、ずっと嫌な使われ方をしている」
リリィが布で包まれた自分の手を見た。
「わたし、測られたんですか」
エイヴァはすぐに答えなかった。
それが答えみたいなものだった。
俺はリリィの前に座る。目線を合わせると、少し困った顔をされた。俺の顔が近いと、怖いのかもしれない。今さらだが。
「今わかることだけだ」
「うん」
「おまえの手で扉は開いた」
「うん」
「それで、奥へ行ける」
「……うん」
「なら、今はそこまでだ。わからんことを全部、ここで背負うな」
リリィは小さく息を吸った。
「でも、わたしが触ったから」
「触った。怖かった。それでも戻ってきた。まずそこを覚えろ」
「……戻ってきた」
「ああ」
リリィは自分の手を、もう片方の手でそっと押さえた。
その顔に、少しだけ色が戻った。
「戻ってきました」
「そうだ」
「グローさんが引っ張りました」
「縄もな」
「縄も」
リリィはなぜか少し真面目に頷いた。
ベルニーが細縄を拾い、土を払った。
「返して」
「ああ。助かった」
俺が返すと、ベルニーは少しだけ目を細めた。
「貸しただけ」
「それでも助かった」
「……そう」
ベルニーは視線を逸らした。エイヴァがその横顔をじっと見ていたが、何も言わない。
バランが通路の前へ一歩出る。
「さて。道は開いた。ここからは、いよいよぼくの出番――」
「先頭は俺だ」
「早いね」
「罠を踏む顔をしてる」
「また顔かい」
「全身だ」
リリィが小さく笑った。さっきよりは弱いが、ちゃんと笑った。
俺は荷袋から干し豆を二粒出し、一粒をリリィへ、一粒をエイヴァへ渡した。
エイヴァは豆を見て、半眼になった。
「この流れで豆かい」
「食える時に食え」
「アタシはさっき測定施設だって言ったんだよ」
「だから食え。倒れたら説明もできん」
「君の心配は毎回、食事に落ちるねえ」
「効く」
リリィが豆を両手で受け取った。
「効きます」
「君まで」
エイヴァは文句を言いながら、小さく豆をつついた。
バランがこちらを見て、少しだけ肩をすくめる。
「君たちは、緊張感と食事の距離が近いね」
「金がない旅はだいたいそうだ」
「名言のようで、あまり憧れないな」
「憧れるな。金が減る」
ベルニーが短く言った。
「進むなら、早く」
その通りだ。
扉は開いた。音も光も変わった。誰かが気づくかもしれない。移動市の上では、まだ人が笑い、物を売り、白い旗が風に揺れているはずだ。
この下で何が開いたか、誰も知らない顔をしている。
それが一番、気味が悪い。
俺はリリィの靴を見る。紐は緩んでいない。かかとも抜けていない。ただ、膝の布が少し破れている。あとで直す。今は動けるかどうかだ。
「立てるか」
「立てます」
「無理なら言え」
「少し、足が震えます」
「よし」
「震えてるのによし、ですか」
「隠さなかったからな」
リリィは疲れた顔で、少しだけむっとした。
「それ、便利ですね」
「便利に使ってる」
「ずるいです」
「覚えとけ。ずるいのは役に立つ」
「それは、いいこと?」
「使い方次第だ」
リリィは真面目に考え込んだ。
「あとで考えます」
「今は歩け」
「うん」
俺は斧を持ち直し、通路へ入った。
先頭は俺。その後ろにリリィ。リリィの肩にエイヴァ。少し離れてバラン、最後にベルニー。自然とそうなった。同行ではない。和解でもない。ただ、この狭い場所で生きて進むには、その並びが一番ましだった。
通路は低く、湿っていた。
だが、井戸の底とは違う。
声が遅れて返ってこない。代わりに、足音が吸われる。壁に刻まれた欠けた翼の線は、ここではまっすぐ奥へ向かっていた。案内にも見える。誘導にも見える。
俺は誘導されるのが嫌いだ。
「エイヴァ」
「何だい」
「この先の盤とやらは、触ったらまた測るのか」
「たぶんね」
「なら、先に言え」
「言うよ。今度はね」
今度は、という言い方が気に食わない。
だが、エイヴァの声に余裕はなかった。責めても羽がさらにしぼむだけだ。
リリィが小さく言った。
「エイヴァ、さっき止めようとしてくれた」
「遅かったけどね」
「でも、止めようとしてくれた」
「……そういうところを拾わなくていいんだよ」
エイヴァは顔を背けた。
小鳥の背中は小さい。けれど、その小さい背中も今は少し震えている。リリィはそっと手を添えた。包むほどではない。ただ、落ちないように支えるだけだ。
いい距離だ。
通路の先が開けた。
そこは丸い小部屋だった。
天井は低いが、井戸底よりは広い。中央に、平たい石の盤がある。大人の両腕を広げたくらいの大きさだ。表面には文字がない。代わりに、浅い溝がいくつも走っている。輪のようにも、羽の骨のようにも見える線。
片側が、欠けていた。
リリィが息を止める。
エイヴァが小さく言った。
「記録盤だね」
俺はリリィの前に腕を出した。
「触るな」
「うん」
今度の返事は、ちゃんと遅くなかった。
バランも黙った。ベルニーは弓を下ろさず、部屋の隅を見ている。
石の盤は、何も言わない。
だが、こちらを待っているように見えた。
文字も声もないくせに、リリィの手を覚えているみたいに。




