第10話-2◆音が遅れる
俺は縄を越えた。リリィが続こうとしたので、手で止める。
「俺が先だ。足場を見る」
「うん」
「エイヴァ、明かりは」
「豆粒程度なら」
「十分だ。使いすぎるな」
「わかってるよ。アタシを便利な灯り扱いするんじゃないよ」
「便利じゃないなら肩で寝る鳥だ」
「もっと敬意を持ちな」
エイヴァは文句を言いながら、くちばしの先に小さな光をともした。火ではない。白い羽の根元からにじむような、弱い明かりだ。井戸の内側の石を、手のひら一枚分だけ照らす。
そのかわり、羽が少ししぼんだ。
「短く済ませる」
「そうしておくれ」
俺は鉄の輪に足をかけ、ゆっくり下りた。
一段、二段。
井戸の内側は思ったより広い。だが、オークの体で余裕があるほどではない。肩が石に触れる。斧が引っかからないよう、背中の位置を直す。
足場は湿っている。苔は少ない。誰かが使っているからだ。
上からリリィの声が落ちてきた。
「グローさん、大丈夫ですか」
大丈夫ですか。
――ですか。
――か。
声が遅れて、下から薄く返る。
リリィが上で息を飲んだのが聞こえた。
「声は短くしろ」
「うん」
うん。
――うん。
その反響でさえ、少し遅れる。
俺は舌打ちしたくなったが、やめた。音が増える。
「下りろ。ゆっくり」
リリィが井戸へ入る。
小さな足が鉄の輪を探す。靴の先が一度滑りかけた。俺は下から手を伸ばし、足首ではなく靴底を軽く押さえる。
「ここ」
「うん」
「次は右。輪が少し奥だ」
「はい」
「はいじゃなくて、足を見る」
「見てます」
「見てる顔で返事するな」
リリィが少しだけ笑った。緊張が抜けたならいい。
エイヴァはその上から羽ばたき、井戸の内側をくるりと回った。羽音が、遅れて二度聞こえる。
ぱた。
――ぱた。
リリィの耳が伏せた。
「エイヴァの羽の音が、二羽います」
「失礼だね。アタシは一羽でも充分やかましいよ」
「自覚はあるんだな」
「君よりはね」
そんな小声でも、井戸の奥は拾う。
リリィが顔をしかめた。
俺は下りる速度を落とした。
「耳がきついか」
「少しだけ。音が、後ろから来るのに、前にもいるみたいで」
「吐きそうか」
「そこまでは」
「そこまで行く前に言え」
「うん」
俺はリリィを抱えない。
抱えれば早い。俺の腕なら、下まで運べる。だが、それではリリィが井戸の音を自分で知れない。怖いものを全部俺の背中でやり過ごすことになる。
それが必要な時もある。
今は違う。
だから、歩幅を落とす。足場を先に見る。危ない輪には先に指をかけ、動くかどうか確かめる。リリィが届きにくいところでは、手を置く場所だけ示す。
それでいい。
俺がそう思っていると、上からバランが下りてきた。
「なるほど。思ったより――」
思ったより。
――より。
――より。
「黙れ」
ベルニーが言った。
「まだ途中だよ」
「途中だから黙って」
バランは口を閉じた。足はうるさい。鉄の輪を踏むたびに、かん、と乾いた音が鳴る。それが井戸の底で、少し歪んで戻ってくる。
リリィが肩をすくめた。
俺は上を見た。
「足も黙らせろ」
「足までは難しいね」
「難しくするな」
ベルニーが無言でバランのすぐ下へ下り、バランの靴先を一度だけ弓の端で押さえた。
音が止まる。
「できるじゃないか」
「自力ではない」
エイヴァが感心したように言うと、ベルニーは少しだけ視線を向けた。小鳥を見る目が、一瞬だけやわらぐ。
だが、そのすぐあと、井戸の壁を見た。
「線がある」
俺も見た。
石組みの隙間に、細い線が刻まれている。自然な傷ではない。古い。苔と湿気で半分埋もれている。欠けた翼に似た曲線が、石の縁に沿って続いていた。
ただ、門の石に浮いたものより乱れている。
リリィが近づきかけたので、俺は肩で止めた。
「触るな」
「うん。……でも、これ、変です」
「欠けた翼か」
「似ています。でも、ずれてる。線の順番が、聞こえる順番と違う」
聞こえる順番。
俺にはわからん。
だが、リリィの顔は真面目だった。便利な観察ではなく、本人が気持ち悪さに耐えながら拾っている顔だ。
エイヴァが壁に近づき、くちばしの明かりを細くした。
「なるほどねえ。読むんじゃない。鳴らすんだ」
「鳴らす?」
「この線は目で追うだけじゃ足りない。音が返る場所に合わせて刻んである。井戸そのものを使っているんだよ」
エイヴァが翼を少し動かした。
羽音。
――羽音。
――少し遅れた羽音。
その遅れ方が、壁の線の前で変わった。
リリィが息を止める。
「今、音が曲がりました」
「ああ。君の耳はよく拾うね」




