第10話-1◆縄は新しい
古井戸の周りには、縄が二重に張られていた。
杭は古い。だが、縄だけは新しい。白い布切れがいくつも結ばれていて、風が吹くたびにひらひら揺れる。移動市の喧騒から少し奥へ入っただけなのに、そこだけ妙に音が薄かった。
人が近づかないからではない。
近づいた音が、井戸の縁で一度迷っているような感じがした。
「立入禁止だな」
俺は縄の前で足を止めた。
「読めるんですか」
リリィが札を見上げる。板に書かれている字は、半分が雨でにじみ、半分が誰かの手で塗り潰されていた。
「読めん。だが、縄が二重ならだいたい入るなという意味だ」
「じゃあ、入らないんですか」
「普通はな」
リリィは少しだけ顔を明るくしかけて、すぐに真面目な顔へ戻した。
「普通じゃないんですね」
「ああ」
「……よかった、って言ったらだめですよね」
「言う前にわかるならまだいい」
俺は杭の根元を見る。土が踏まれている。新しい足跡が二種類。細い靴と、大きい靴。巡礼の履く柔らかい靴ではない。冒険者か、見張りか。
白い布の結び目には、薄く煤がついていた。火の近くで使った布だ。飾りではなく、印に使い回している。
リリィが青い布片を胸元で握った。
前に白い馬車から取った、里の縫い方が残る布だ。布そのものは小さい。だが、リリィにはその重さがずっとあるらしい。こういう時、無意識に触る。
「手を出すな」
俺が言うと、リリィははっとして手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
「怒ってない。握りすぎると端が崩れる」
「あ……うん」
リリィは布片を包み直した。少し恥ずかしそうにする。怒られた顔ではない。自分で気づいた顔だ。
エイヴァは俺の肩で白い羽をふくらませていた。
「ここ、嫌な響きがするねえ」
「井戸だから響くんだろ」
「ただの井戸なら、もっと間抜けに響くよ。水桶を落とした旅人が、三日くらい後悔する程度にね」
「それはそれで嫌だな」
「これは違う。音が戻ってくるまでに、少し考えている」
「音が考えるな」
「たとえだよ、たとえ。君はもう少し情緒を持ちな」
「情緒で穴は下りられん」
エイヴァが「ちちっ」と鳴いた。呆れた時の鳴き方だ。
俺は井戸の縁に近づき、片膝をついた。
石組みは古い。崩れかけているように見えるが、要所だけは補修されている。縁の内側に、足をかけるための鉄の輪が打ち込まれていた。普通の井戸なら、こんなものはいらない。桶を下ろすだけなら滑車で済む。
下りる前提で作られている。
いや、後からそう使うように直されたのか。
井戸の底は暗い。水の匂いは薄い。代わりに、湿った石と、古い布と、少しだけ薬草に似た匂いが上がってくる。
白い飴の後味を思い出した。
草のような、冷たい味。
「グローさん」
リリィが声を落とす。
「下から、声がします」
俺は耳を澄ませた。
市の方では、まだ笛の音がしている。肉を焼く音。商人の呼び声。子供の笑い声。
その奥に、確かに何かがあった。
声というより、声だったものの残りだ。
井戸の底で、誰かが小さく笑ったような音がして、それが遅れて石の内側をなぞって上がってくる。
「子供か」
「わからないです。でも、子供みたいに聞こえて……でも、遅い」
リリィの耳がぴくりと動いた。動いたあと、少し伏せる。
「気持ち悪いです」
「なら下がれ」
「下がりません」
返事が早かった。
俺はリリィを見る。顔色はよくない。だが、目は井戸から離していない。
「抱えて下りる手もある」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
「言いそうでした」
「そうか」
言いそうだった。少し腹が立つが、当たっている。
リリィは胸の前で手を握った。
「歩けます。怖いけど、歩けます」
「足は」
「少し痛いです」
「よし」
「痛いのによし、ですか」
「隠さなかったからよしだ。途中で悪くなったら言え。強がったら上に戻す」
「……わかりました」
少し不満そうだが、うなずいた。悪くない。
俺は井戸の周りをもう一度見た。逃げ道は二つ。市へ戻る道と、白い天幕の裏へ抜ける細道。見張りはいない。見張りがいないのは、安心材料ではない。見張らなくても誰も近づかないと思っているか、入った者を中でどうにかできると思っているかだ。
面倒だな。
そう思った時、白い天幕の裏側で派手に布が揺れた。
「はっはっは、なるほど! こちらが本命というわけか!」
バランの声だった。
古井戸の縁に当たったその声が、一拍遅れて底から返ってくる。
――本命というわけか。
――わけか。
――か。
リリィが耳を押さえた。
エイヴァが羽を逆立てる。
「うるさい!」
俺とエイヴァと、少し離れた場所にいたベルニーの声が、ほぼ同時に重なった。
バランは天幕の影から現れ、少しだけ目を丸くした。
「おや。熱烈な歓迎だね」
「声を落とせ」
「そんなに大きかったかな」
「井戸が三回返してきた」
俺が言うと、バランは縁をのぞき込んだ。
「ほう。なかなか面白い場所だ。音が英雄譚に向いている」
「向いてない」
ベルニーが短く言った。
いつの間にか、バランの後ろに立っている。足音が軽い。弓は背負ったままだが、右手はすぐ動く位置にある。
「ここは声がずれる。大声は邪魔」
「君までそう言うのかい。ぼくの声は場を明るくするための――」
「黙って」
「……はい」
バランが素直に口を閉じた。
リリィが少しだけ目を丸くする。エイヴァが小声で言った。
「今のはいいね。短くて効いた」
「真似するなよ」
「君が言っても効かないよ。顔がもううるさいから」
「鳥に顔を言われたくない」
バランは俺たちを順に見て、それから白い縄を指で持ち上げた。
「さて。競争相手が同じ井戸に集まったわけだ。これはもう、どちらが先に底を見るかの勝負だろう」
「勝負じゃない」
「君はすぐそう言う」
「穴の中で競争するやつは死ぬ」
バランが何か言い返しかけた。ベルニーが横から白い布切れをつまみ、鼻先に近づける。
「同じ匂い」
「飴か」
俺が訊くと、ベルニーは頷いた。
「少し。あと煙。古い薬草」
やはりか。
俺は井戸の内側に手を入れ、鉄の輪を引いた。錆びてはいるが、抜けない。二つ目、三つ目。下へ続いている。
「先に下りる」
「ぼくが――」
「おまえは後だ」
俺はバランを見た。
「声を出すな。鉄の輪を蹴るな。降りる時に格好をつけるな」
「三つ目は偏見では?」
「経験だ」
「ぼくと君はそれほど長い付き合いじゃないはずだが」
「短くてもわかることはある」
ベルニーが微かに頷いた。
バランは少し傷ついたような顔をしたあと、すぐに笑った。
「いいだろう。今日は君の地味な穴下りを見せてもらうよ」
「褒めてないな」
「もちろん」
「正直で腹が立つ」




