第09話-4◆それから古井戸
周囲の客のざわめきが増える。ここで揉めれば、市の見張りが来る。白い連中も来る。こっちはリリィを抱えている。よくない。
俺は老婆の箱を最後の場所へ運び、空いた手で黒パンの包みを持ち直した。
「約束の話は聞いた。食料は」
老婆は台の下から、小さな袋を出した。干し豆と、硬い焼き菓子の欠けと、塩を少し包んだもの。
「働きの分だよ。あと、その子に糸を一本」
「金はないぞ」
「古い糸だ。売れ残りだよ」
老婆は淡い青の糸を短く切り、リリィへ差し出した。
リリィは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「礼はいい。白い外套に近づくなら、縫い目を見るんだよ。表より裏だ。子供に着せるものほど、裏に本音が出る」
リリィはぎゅっと糸を握った。
「はい」
白い男が低く言った。
「その子を不安にさせるだけです」
リリィは肩を震わせた。
だが、俺の外套から手を離した。ほんの少しだけ前へ出る。俺は止めようとして、やめた。半歩だけだ。逃げ道はある。俺の腕も届く。
「不安です」
リリィは言った。
「でも、見ない方が、もっと不安です」
白い男の笑みが止まった。
リリィは胸元を押さえる。青い布片と、今もらった糸。その両方を包むように。
「姉さんのことも、白い馬車の子たちのことも、見ないと近づけないから」
声は震えている。だが、言い切った。
俺は右耳の欠けをかいた。
子供は時々、正しいことを危ない場所で言う。
「言うだけ言ったら下がれ」
「はい」
リリィはすぐ下がった。そこは聞き分けがいい。いいが、さっきより少し顔が赤い。自分で言って怖くなった顔だ。
エイヴァがそっとリリィの肩へ戻り、くちばしで頬の横をつついた。
「よく言った。あとで水を飲みな」
「今ほめました?」
「報告だよ」
「それ、グローさんのまね?」
「やめろ」
俺が言うと、エイヴァは「ぴっ」と鳴いた。腹の立つ小鳥だ。
バランは白い男へ向き直り、にこやかに手を広げた。
「さて、白い巡礼の方。ぼくもその古井戸に興味が出てきた。案内してもらえるかな?」
「立入には手続きが必要です」
「手続き。いい言葉だ。面倒をきれいに見せる」
バランの笑顔は明るい。だが、剣の柄から手が遠すぎない。
ベルニーが短く言う。
「行くなら、黙って行く」
「ぼくにだけ難しい条件を出すね」
「必要条件」
「ひどいな」
俺はリリィの靴を見る。かかとの布がまた少しずれている。顔色もよくない。市の音、人の匂い、白い旗、白い男。疲れる条件が揃いすぎている。
「今日は井戸を見るだけだ」
「入らないんですか」
「準備なしで穴に入るな」
「穴……井戸です」
「下に行くなら穴だ」
リリィは少しだけ笑いかけて、すぐ真面目な顔に戻った。
「でも、見ます」
「ああ」
「見ないと、近づけないから」
「なら、食って歩け」
俺は老婆からもらった袋を開け、干し豆を少しリリィへ渡した。ついでに水袋も渡す。
リリィは両手で受け取った。怖い顔のまま、真面目に豆を噛む。
エイヴァが肩で小さく言った。
「君の励ましは、相変わらず食事指導だねえ」
「効く」
「まあ、効くね」
市の奥で、鐘が一つ鳴った。
白い旗が風に揺れる。その向こうに、低い石組みの輪が見えた。古井戸だ。人混みの奥に隠れるようで、隠れていない。白い天幕から続く細い道の先にある。
子供の笑い声が、どこかから遅れて返ってきた。
笑い声のはずなのに、井戸の底で少し形を変えて戻ったように聞こえた。
リリィの耳がぴくりと動く。
「今の……」
「ああ」
エイヴァは何も言わなかった。
ただ、白い羽が少しだけしぼんでいた。
俺は斧の柄に手を置き、市の奥を見た。
移動市は何でも売る。
食い物も、水も、布も、薬も、笑いも、噂も、子供の安心も。
たぶん、怖さまで値札をつけて売っている。
なら、こっちは買うものを選ぶだけだ。
まずは水。食料。逃げ道。
それから、古井戸。
リリィが見ないと進めないと言うなら、俺は見られる場所まで連れていく。
ただし、向こうがリリィを測ろうとするなら話は別だ。
その時は、井戸でも旗でも、まとめて黙らせる。




