第09話-1◆白い旗
移動市は、遠くからでも匂いでわかった。
焼いた肉。煮た豆。湿った布。薬草。獣の毛。人の汗。安い酒。甘い菓子。
それらが風に混ざって流れてきた時点で、リリィの足が少しだけ速くなった。
「走るな」
「走ってないです」
「気持ちが走ってる」
リリィははっとして、自分の足元を見た。中古の靴のかかとが少し浮いている。橋を越えてから、何度か布を噛ませ直したが、長く歩けばどうしてもずれる。
「……気持ちも、転びますか」
「転ぶ時はだいたい足も一緒だ」
「むずかしいです」
「俺に聞くな。俺も今、言ってから少し後悔してる」
肩の上でエイヴァが「ちちっ」と鳴いた。
「名言っぽくしようとして失敗したねえ」
「鳥が一番うるさい」
「市に着く前から品評とは、景気がいいじゃないか」
エイヴァは羽づくろいをするふりをしながら、前方の白い旗を見ていた。
市の入口に、何本も旗が立っている。赤、青、黄。薬売りのしるし。獣商のしるし。旅芸人の派手な布。その中に、白い旗があった。
風に揺れる白布の中央に、欠けた翼に似た印が刺繍されている。
隠していない。
門の石板、役場裏、白い馬車、宿場の壁、橋のそば。今まで見つけるたびに、どこか隠れた場所や見えにくい場所にあった印が、ここでは人目につく高さで堂々と揺れていた。
リリィもそれを見て、足を止めた。
「あれ……」
「ああ」
「みんな、見てます」
「そうだな」
見ている。だが、誰も気にしていない。
市に入る旅人も、荷車を押す商人も、子供を連れた女も、旗の下を普通に通っていく。白い旗の横では、深い頭巾をかぶった男が小さな木札を配っていた。笑顔だ。優しそうに見える。腹立たしいくらい、普通の顔をしている。
リリィの手が、胸元の布片を押さえた。
町の裏口で取った薄い青の布。里の子供用の縫い方が使われていたやつだ。姉のものだとは決められない。決められないが、捨てられるものでもない。
「入るぞ」
俺は市の入口から少し外れた場所を選んだ。
正面にはバランたちが行くと言っていた。あいつは目立つ。顔も声も服も剣も、全部が市向きだ。正面で笑っていれば、勝手に人が寄る。
俺が同じことをやると、寄るのは人ではなく見張りだ。
実際、入口の男がこちらを見た。俺の顔、牙、斧、鎖帷子、リリィの耳、肩の白い小鳥。順に見て、白い旗の方へ一度視線を送る。
覚えられたな。
「グローさん」
「俺の横にいろ。旗は見るな」
「でも」
「見たのはもうわかってる。二度目は相手にわかる」
リリィは小さく息を吸って、頷いた。
「うん」
「エイヴァ」
「ぴるる」
「普通の小鳥は、こういう時だけ上手いな」
「ぴっ」
返事まで小鳥にするな。腹が立つ。
移動市の中は、三差路の町より雑で、湿地の宿場より明るかった。
布を張った天幕が道の両側に並び、煮込みの鍋から湯気が上がっている。串焼きの脂が炭に落ちて、ぱちぱちと音を立てる。薬売りは乾いた声で薬草の名を並べ、隣の芸人は玉を三つ宙に投げて子供を笑わせていた。
その明るさの奥に、白い天幕がある。
きれいすぎる白布。深い頭巾。小さな水桶。子供用の外套。白い包み紙。
リリィがそちらへ目を向けかけたので、俺は先に黒パンを売る台へ曲がった。
「まず食い物と水だ」
「はい」
「見るのは食ってからだ」
「食べながらは?」
「落とす」
「落としません」
「前に言って転びかけた」
「それは転んでないです」
リリィの声が少しだけ元に戻った。よし。
黒パン二つ、水袋一つ、干した豆少し。値段を聞いて、俺はすぐ店を出ようとした。
「待て待て、買わないのかい」
店主が慌てる。
「高い」
「市の値段だよ」
「市の値段にしても高い」
「なら他へ行きな」
「そうする」
「本当に行くなよ!」
面倒な店主だ。
俺が振り返ると、店主は俺ではなくリリィを見ていた。リリィは鍋の横に置かれた丸い焼き菓子を見ている。見ていないふりをしているが、目が完全に菓子へ行っている。
「子供には、こっちの蜂蜜焼きが人気だよ」
店主がにやりとした。
リリィが慌てて顔を上げる。
「見てないです」
「見てたな」
「少しだけです」
「正直でよろしい」
俺は焼き菓子を見た。小さい。薄い。蜂蜜の匂いはするが、混ぜ物も多いだろう。それでも、リリィの目がさっきから一度ずつ戻る。
銅貨を数える。足りる。だが、水とパンを削ると意味がない。
「水袋の底を見せろ」
「へ?」
「泥がないか見る」
「うちは信用で商売してんだ」
「信用してないから見せろ」
店主は嫌そうな顔で水袋を傾けた。底に泥は少ない。まったくないわけではないが、前よりはましだ。
「黒パン一つ、水、豆。それとその薄い菓子」
「足りねえ」
「なら菓子をやめる」
「待て待て。子供の顔を見てそれを言うかね」
「子供の足を見て値を上げる店に言われたくない」
店主の口が止まった。
リリィが小さく俺を見上げた。
「グローさん、わたし、菓子は」
「黙ってろ。今、下げてる」
「はい」
店主は俺とリリィを見比べて、最後にエイヴァを見た。
「じゃあ、その白い小鳥が芸を一つ――」
「やらん」
「まだ言い終わってない」
「終わりが見えた」
エイヴァが肩の上で羽をふくらませた。
「アタシを値引きの材料にするんじゃないよ」
「喋るな」
「ぴっ」
遅い。
幸い、周りの呼び声と鍋の音で、店主には小さな鳴き声にしか聞こえなかったらしい。ただ、白い小鳥には興味を持った。目が商人のそれになる。
「珍しい鳥だな。白くて丸い。市の獣商なら、いい値をつけるぞ」
リリィが即座にエイヴァを両手で包み込んだ。
「売り物じゃありません」
「いや、そういう意味じゃ――」
「担保でもありません」
今度は店主の方が黙った。
リリィは言ってから、自分で少し顔を赤くした。エイヴァが指の隙間からくちばしを出す。
「よし、学んでいるね。握り方は学んでないけどね。ちょっと苦しい」
「あっ、ごめん」
リリィが慌てて手を緩める。
俺は銅貨を台に置いた。
「黒パン、水、豆、菓子。これで最後だ」
「……しょうがねえな。子供が真面目だと、こっちが悪人みたいだ」
「みたいじゃなくて少し悪い」
「買う側が言うことか」
「売る側が最初に言うことでもない」
店主はぶつぶつ言いながら、黒パンと豆と薄い焼き菓子を包んだ。
リリィが焼き菓子を両手で受け取る。割れないように、大事そうに。嬉しいのを隠そうとして、隠しきれていない。




