第08話-1◆轍が三つ
白い馬車の轍は、小川沿いの道で三つに分かれていた。
ひとつは、水辺をまっすぐ下る跡。
ひとつは、乾いた草地へ上がる跡。
もうひとつは、浅瀬を渡って、反対側の林へ入る跡だ。
どれも細い車輪の幅に見える。どれも馬の蹄が混じっている。どれも、少し見ただけなら本物に見える。
だから、全部が信用できなかった。
「……増えたな」
俺はしゃがんで、濡れた土を指で押した。
リリィも隣にしゃがもうとしたので、先に手で止める。
「膝をつくな」
「もう泥じゃないです」
「水際だ。滑る」
「でも、見えません」
「俺の腕につかまれ」
リリィは少しだけ目を丸くしてから、素直に俺の腕につかまった。昨日より返事が早い。足が痛いのを隠す余裕がないだけかもしれない。
エイヴァが俺の肩で羽づくろいしながら言う。
「ほらね、子供の足を気にするなら、最初からそう言えばいいんだよ」
「今言った」
「毎回、言うまでが遠い」
「鳥に距離を測られたくない」
リリィが小さく笑った。
笑ったが、すぐに視線は轍へ戻る。
昨日の子供。
名前を返してもらうと言っていた白布の子。
リリィはあれから、何度も胸元の包みを押さえている。白い飴の包み紙、糸くず、欠けた翼に似た印。手掛かりは増えているのに、安心はひとつも増えない。
俺は三つの轍を順に見た。
水辺を下る跡は深い。だが、馬の蹄が一頭分しかない。草地へ上がる跡は新しいが、途中で車輪幅が少し広がっている。別の荷車の跡を重ねたか。浅瀬を渡る跡は、水で半分消えている。
消えかけているから本物に見える。
そう見せたいなら、やり方としては悪くない。
「どれが本物だい?」
エイヴァが訊く。
「今のところ、全部嫌いだ」
「いい答えだねえ。何も進まないけど」
「進む前に間違えるよりましだ」
その時、反対側の林の方から派手な声がした。
「こっちだ!」
バランだ。
声がでかい。林の鳥が何羽か飛び立った。
すぐにベルニーの声が続く。
「違う。声を抑えなさい」
「でも、車輪跡があるだろう!」
「ありすぎるから違うの」
少しして、バランとベルニーが林の陰から出てきた。
バランの靴は濡れている。裾には泥。白い馬車を追って浅瀬を渡ったらしい。派手に走ったのか、肩で息をしている。
ベルニーは濡れていない。浅瀬の少し上流へ回ってから、石を使って渡ったのだろう。弓にも泥はついていない。腹立たしいくらい落ち着いている。
「やあ、また会ったね」
バランは笑顔を作ったが、少し悔しそうだった。
「迷子か」
俺が言うと、バランの眉が跳ねた。
「調査だよ。君と違って、ぼくは行動が早い」
「戻ってきてるが」
「確認だ」
ベルニーが短く言った。
「迷子」
「ベルニー」
「違う道に誘われただけ。罠とまでは言わないけれど、追わせるための跡ね」
バランは口を閉じた。
リリィがベルニーを見上げる。
「やっぱり、浅瀬じゃないんですか」
「本物も混じっているかもしれない。でも、馬車を追う側の目を散らすための跡が多すぎる」
ベルニーは足元の草を指した。
「車輪が通ったなら、草は倒れて水を含む。あそこは倒れているのに、泥の跳ね方が足りない。車輪だけを転がしたか、軽い車台でなぞったか」
「わざと?」
「たぶん」
バランが腕を組む。
「つまり、白い馬車はぼくたちの追跡を読んでいたわけか」
「白い馬車の連中が、だろうね」
エイヴァが小声で言った。
バランが目を細める。
「その鳥、今しゃべらなかった?」
エイヴァは即座に「ぴるる」と鳴いて、首をかしげた。
俺は肩をすくめた。
「気のせいだ」
「絶対に気のせいじゃないと思うんだけど」
ベルニーがエイヴァをじっと見た。
エイヴァは羽づくろいを始めた。普通の小鳥のふりとしては、少しわざとらしい。
ベルニーは何も言わなかったが、目だけがわずかに緩んだ。
触りたい顔だ。
今はやめてくれ。
リリィが轍から顔を上げた。
「じゃあ、馬車を追えないんですか」
「追える道はある」
俺は水辺の跡を見た。
「ただ、追わせたい道かもしれない」
「それならどうするの」
バランが言う。
「先回りする。馬車なら、次に休む場所がいる。子供を乗せているなら、なおさらだ」
「いいね。なら、ぼくが先に行く」
「やめとけ」
「なぜ」
「おまえは目立つ」
バランが笑顔のまま固まった。
ベルニーが短く頷く。
「事実」
「君たち、少しは言い方を選んでくれないかな」
「選んでそれだ」
俺は立ち上がり、リリィの足元を見た。
「リリィ、足は」
「歩けます」
「痛いか」
「……少し」
「よし」
「痛いのによしなんですか」
「隠さなかったからよしだ」
リリィは少しだけ不満そうにしたが、すぐ頷いた。
エイヴァが小さく羽をふくらませる。
「追う前に、水だね」
「ああ」
俺は水袋を振った。軽い。
昨日の宿場で補充はしたが、湿地道で減った。リリィもエイヴァも、少しずつ消耗している。白い馬車を捕まえる前にこちらが倒れたら、ただの間抜けだ。
「まず水と食料を確保する」
バランが眉を寄せた。
「今?」
「今だ」
「白い馬車は離れていく」
「追いかけて倒れたらもっと離れる」
リリィがこちらを見る。
たぶん、昨日自分に言われたことと同じだと思ったのだろう。少しだけ口元が動いた。
エイヴァが楽しそうに言う。
「グローはね、腹が減ると判断が鈍るのをよく知ってるんだよ。主に自分で」
「おまえもだろ」
「アタシは高貴な空腹だよ」
「腹は腹だ」
ベルニーが小川の下流を見た。
「この先に荷車用の板橋があるはず。古い道だけど、移動市へ行く商人が使う」
「移動市?」
リリィが聞き返した。
ベルニーが頷く。
「旅人、商人、芸人、巡礼、薬売り、獣商。そういうものが集まる場所。何日か場所を決めて開いて、また移る」
エイヴァの羽がぴくりと動いた。
「移動市かい」
「知っているのか」
「昔から、何でも集まるところには、ろくでもないものも集まるもんだよ」
「白い馬車も?」
リリィが訊く。
「飴包み、白布、外套、宿場の印。全部が点々と置かれている。馬車そのものを追わせたいというより、決まった休み場をつないでいるように見えるね」
エイヴァは首をかしげた。
「次は、馬車を追うより、馬車が向かう場所を見るべきかもしれない」
リリィの目が揺れる。
「場所……」
「馬車は隠せる。轍も消せる。でも、子供を測るなら、どこかで降ろす。休ませる。並べる。記録する。そういう場がいる」
エイヴァの声は小さい。
だが、重かった。
バランが腕を組み直す。
「つまり、白い馬車は移動市へ向かっている?」
「可能性はある」
ベルニーが言う。
「この先の板橋を越えれば、移動市へ向かう古い道に合流できる。白い馬車がそこへ行くなら、私たちが今すぐ轍だけを追う必要は薄い」
「薄い、だけだろう」
バランはまだ納得していない。
「その間に、子供たちがどこかへ連れていかれたら?」
リリィが顔を伏せた。
バランの言葉は、リリィにも刺さる。
俺はバランを見る。
「追って捕まえたとして、どうする」
「止める」
「どうやって」
「剣で」
「そのあと子供をどうする」
バランは一拍止まった。
昨日と同じ問いだ。
だが、逃げずに考えている顔だった。
「……近くの町へ預ける」
「どの町だ。誰が引き受ける。白い巡礼団を名乗る連中と、おまえの言葉のどちらを信じる」
「ぼくの名なら」
言いかけて、バランは口を閉じた。
自分でも、今は足りないとわかったらしい。
ベルニーが静かに言う。
「助けるなら、相手の仕組みごと見ないといけない」
リリィが顔を上げた。
「仕組みごと」
「馬車一台を止めても、次の馬車が来る。子供の行き先を見つけないと、取り戻せない」
その言葉を、リリィは胸に落としたようだった。
少しして、リリィは言った。
「馬車じゃなくて、市を見に行くんですね」
俺はリリィを見る。
「おまえはどうしたい」
リリィはすぐには答えなかった。
小川の水音。
草に引っかかった白い包み紙。
昨日の子供の声。
全部を聞いたうえで、リリィは自分の言葉を探していた。
「追いたいです」
「ああ」
「でも、追いかけて、転んで、見失って、何もわからなくなるのはいやです」
リリィは胸元の布を押さえる。
「姉さんを探したい。でも、あの子たちも、見たい。どこへ行くのか。何をされるのか。見ないと、きっと助けられない」
言いながら、声は少し震えていた。
それでも、逃げた言葉ではない。
俺は短く頷いた。
「なら、市だ」
リリィが俺を見る。
「いいんですか」
「おまえが決めた。俺は水と飯を考える」
「……そこは変わらないんですね」
「変えたら死ぬ」
エイヴァが「ぴっ」と鳴いた。
「普通の小鳥として、たいへん正しい意見だね」
バランは少し黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「なるほど。地味だけど、悪くない」
「おまえは好きに先へ行け」
「行くさ。ぼくたちはぼくたちの道で市へ向かう。正面から行って、情報を集める」
「目立つからな」
「そうだよ」
バランは胸を張った。
「ぼくが正面から入れば、相手もこっちを見る。君みたいに裏から見るやつには、その方が動きやすいだろう?」
笑っていた。腹立たしいくらい、絵になる顔で。
ただ、言っていることは間違っていなかった。
「わかってるならいい」
「もっと感謝してくれてもいいんだけど」
「助かる。腹は立つが」
「そこは削れないのかい?」
ベルニーが短く付け足す。
「目立ちすぎる時もある」
「ベルニー」
「今回は私が止める」
バランは何か言いたげだったが、飲み込んだ。
少しは学んでいるらしい。




