第07話-2◆三歩だけ
しまった、と思うより早く、リリィは小川沿いの草むらへ一歩だけ出た。
走ってはいない。叫んでもいない。ただ、小さく手を上げた。
白い外套の子供が、その手を見た。
白い手袋の男はまだ気づいていない。
俺はリリィの背に手を伸ばしかけた。
その瞬間、エイヴァが枝の上で「ぴっ」と鳴いた。
短い鳥の声。
白い手袋の男が空を見た。
子供たちも鳥を見る。
リリィはその一瞬で、木の陰に戻った。
俺はリリィの肩をつかんだ。
「勝手にやるな」
声は低かった。
リリィは顔を白くした。
「ごめんなさい。でも、見てたから」
「見てたら何だ」
「わたしを見てた。助けてって、言わなかったけど」
「言われてないものを、勝手に決めるな」
「でも!」
リリィの声が少し大きくなる。
俺は指を唇に当てた。
リリィははっとして、口を閉じた。
怒るのは後だ。今はまだ、見られていない。
白い手袋の男は小鳥を目で追っていた。エイヴァは何も知らない小鳥のふりで枝から枝へ跳ね、最後に「ぴるる」と鳴いて飛び去る。かなり腹が立っていそうな鳴き方だった。
その間に、白い外套の子供は石から立った。
小川の水をすくうふりをして、こちらへ少しだけ近づいた。
俺は迷った。
近づけるな。危険だ。
だが、子供の手には包み紙がある。何かを伝える気だ。
リリィの肩を押さえたまま、俺は低く言った。
「三歩だけ」
リリィが俺を見る。
「それ以上行くな。俺の手が届くところまでだ」
「うん」
「声は小さく」
「うん」
リリィは草むらの端へ出た。
白い外套の子供も、小川の向こう側で止まる。水を挟んでいる。距離はある。だが、子供同士の声なら、俺には聞こえる。白い手袋の男には、水音で少し紛れる。
リリィが息を吸った。
「ねえ」
白い外套の子は顔を上げた。
頭巾の奥から、薄い灰色の目が見えた。耳は隠れている。種族はわからない。
「だいじょうぶ?」
リリィが訊いた。
その子は少し考えた。
「だいじょうぶ」
返事は平らだった。
リリィの指が震える。
「名前は?」
子供は答えない。
代わりに、包み紙を握り直した。
「名前は、あとで返してもらう」
リリィが固まった。
「返してもらう?」
「白い人たちが、ちゃんと測ってくれる。泣かなければ、返してもらえる」
白い人たち。
ちゃんと測ってくれる。
昨日の宿場で聞いた「いい子」と同じ匂いの言葉だった。
リリィは一歩出かけた。
俺は肩に置いた手へ少し力を入れた。
リリィは止まる。
「測るって、何を?」
「響き」
「響き?」
「胸の奥の音。ざわざわする音。白い人たちは怖くない。飴をくれる。毛布もくれる。泣くと、響きが乱れるから、泣かない」
子供は淡々と話す。
覚えさせられた言葉だ。
だが、その中に本人の声も少しだけ混じっている。怖くない、と言う時だけ、指が包み紙を強く握った。
リリィはそれに気づいたらしい。
「ほんとうに、怖くないの?」
子供の口が止まった。
小川の水音が間を埋める。
白い手袋の男が振り返りかけた。
ベルニーの弓が、遠くでほんの少し動いた。狙ってはいない。だが、いつでも動ける位置だ。
バランは今にも飛び出しそうな顔をしている。
やめろ。今はまだ早い。
俺は片手を低く上げ、バランに見えるように振った。
止まれ、の合図だ。
バランは歯を食いしばった顔をした。
ベルニーが短く何か言う。たぶん「静かに」だ。
白い外套の子供は、小さな声で言った。
「怖いって言うと、最初からになる」
リリィの喉が動いた。
「何が」
「数えるの」
子供は包み紙を少しだけ開いた。
内側に黒い点が並んでいる。三つではない。五つ。いや、上から塗りつぶした跡もある。小さな爪痕のような線が重なっている。
リリィは息を呑んだ。
子供はすぐ包み紙を閉じた。
「あなたも、白いの?」
「違う」
リリィは即答した。
その速さに、俺は少しだけ眉を上げた。
「わたしは、探してるの。姉さんを」
「姉さん」
子供はその言葉をゆっくり繰り返した。
「わたしには、いない」
「そう……」
「でも、隣の馬車に、ずっと姉さんって言ってる子がいた」
リリィの肩が跳ねた。
俺はリリィを引き戻しかけた。
ここで踏み込むな。踏み込めば、必ず釣られる。
リリィは自分で止まった。
偉い。危なかったが、止まった。
「その子、どんな子?」
声が震えている。
白い外套の子は首を少し傾けた。
「耳が長かった。けど、今はいない」
リリィの顔から色が引いた。
俺は低く言った。
「リリィ」
リリィは唇を噛んだ。
「いつ?」
「わからない。白い人が、よく響くって言ってた。違う馬車に乗った」
よく響く。
嫌な言葉がまた出た。
だが、オリビア本人とは限らない。耳が長い子供など、他にもいる。姉さんと言う子も、他にいる。
リリィもそれはわかっているはずだ。わかっているから、泣かずにいる。けれど、指先は震えていた。
白い手袋の男が、こちらを見た。
「そこに誰かいるのかい?」
声は穏やかだった。
穏やかなまま、白い外套の子供たちが一斉に口を閉じた。
リリィが動けなくなる。
俺はリリィの襟元をつかみ、草むらへ引き戻した。少し乱暴だったが、転ばせない程度には加減した。
「痛っ」
「我慢しろ」
俺はリリィを自分の背後へ押し込み、木陰に沈む。
白い手袋の男が小川の方へ歩いてくる。
足音が軽い。だが、足運びは素人じゃない。柔らかい声で油断させる類の男だ。
太い腕の男も荷から離れた。
まずい。




