第06話-3◆壁の傷と夜
俺は荷を持ち上げた。
「先に座れ。靴を見る」
「大丈夫です」
「その返事は、だいたい大丈夫じゃない」
「……ちょっとだけ痛いです」
「正直でいい」
リリィは納屋の隅に座ると、すぐに靴紐をほどこうとした。指が少し震えている。俺が先に膝をつく。
「貸せ」
「自分でできます」
「時間がかかる」
「できるのに」
「できるのは知ってる。今は俺が早い」
リリィは何か言い返そうとして、やめた。
靴を脱がせると、かかとの布がずれていた。新しい靴は前よりましだが、長く歩けば足は痛む。小さな赤みがある。皮は破れていない。間に合った。
俺は荷から乾いた布を出す。
「水で洗う」
「冷たいですか」
「少し」
「うう」
「動くな」
「まだ動いてません」
「顔が動いてる」
リリィは頬を押さえた。
エイヴァが納屋の梁に止まり、羽をふくらませて笑っている。
「まったく。足の手当てでそんな顔をする子供と、顔にまで命令するオーク。どっちも手がかかるねえ」
「おまえも降りてこい。羽が濡れてる」
「アタシは乾かせる」
「ならリリィの袖も頼む」
「使い方が雑だよ」
そう言いながら、エイヴァはリリィの肩に降りた。小さなくちばしを鳴らし、豆粒ほどの明かりみたいなものを羽先に集める。濡れた袖の端が、ほんの少しだけ温まった。
魔法と言っても、その程度だ。
だが、リリィは肩の力を少し抜いた。
「あったかい」
「ほんの少しだよ。ありがたがりすぎるんじゃない」
「でも、あったかい」
「……まあ、そうだね」
エイヴァの羽が少ししぼんだ。
俺はそれを見て、水袋を差し出した。
「おまえも飲め」
「水よりスープがいいねえ」
「選ぶな」
「年寄りへの敬意が足りない」
「鳥用の器はない」
「手のひらでいいよ」
リリィがすぐ顔を上げた。
「わたしが」
「座ってろ」
「でも」
「足」
「……はい」
俺は手のひらに少し水を受けて、エイヴァに寄せた。
白い小鳥は偉そうに飲んだ。
なぜ俺が鳥に水をやっているのか、少し考えたが、考えるだけ損だった。
「さっきの魔法、あと何回できる」
「袖を乾かすくらいなら、一、二回。豆粒の明かりを出すだけでも、今夜はもう長くは無理だね」
「そんなに減るのか」
「この体だよ。水袋に大鍋の水は入らない」
エイヴァは羽を軽く震わせた。
「便利に見えるなら、見た目に騙されてる。小鳥の魔法は、小鳥ぶんだよ」
「態度は大鍋だがな」
「そこは長老ぶんさ」
リリィが小さく笑った。
スープは思ったより早く来た。
薄い。具も少ない。だが、温かい。
リリィは器を両手で持ったまま、しばらく湯気を見ていた。
「飲め」
「うん」
ひと口飲んで、目元がゆるむ。
「温かいです」
「それは見ればわかる」
「言いたかったんです」
「そうか」
俺は自分の器を見た。スープは薄い。だが、温かい。腹に入れば何でも少しはましになる。
エイヴァは器の縁からパンくずをつつきながら、納屋の奥をちらちら見ていた。
「何かあるのか」
「壁」
小声だった。
俺はリリィに視線で待てと伝え、納屋の奥へ行った。
壁の下の方。荷物に隠れかけた板に、小さな傷がある。最初はただの引っかき傷に見えた。だが、線の曲がり方が嫌に見覚えがある。
欠けた翼に似ている。
完全な印ではない。誰かが急いで刻んだような、片方が欠けた白い線。上から泥を塗られて隠してあるが、完全には消えていない。
俺は触らずに見た。
「おまえが見つけたのか」
「ぴっ」
エイヴァは普通の小鳥のふりをしたあと、小声で続けた。
「通過の合図かもしれないね。ここを使った、ここで休ませた、ここで測った。どれかはまだわからない」
「詳しくは」
「今は言えない。というより、まだ確かじゃない」
「便利な言い方だな」
「無責任に断言するよりはましだよ」
リリィが器を置いて、ゆっくり近づいてきた。
足をかばっている。
「見てもいいですか」
「足」
「ゆっくり来ました」
「そういう問題じゃない」
「でも、見たい」
俺はため息をつきかけて、飲み込んだ。
「俺の腕につかまれ」
リリィは少し驚いた顔をして、それから素直につかまった。体重が軽い。さっきより少し熱い。疲れが出ている。
壁の印を見た瞬間、リリィの指に力が入った。
「門の石の時と、少し似ています」
「ああ」
「でも、これ、ちゃんと描けてない」
「わかるのか」
「欠けているのと、壊れているのは違います」
リリィは自分で言ってから、少しだけ顔をこわばらせた。
欠けた翼。
自分に浮いたもの。
その言葉を、口にしすぎるのが怖いのだろう。
俺は壁から視線を外さずに言った。
「見てた。助かった」
リリィが固まった。
「……今の、褒めましたか」
「事実だ」
「それ、褒めた時の言い方じゃないです」
「じゃあ何だ」
「わかりません。でも、もう少し……」
リリィは言葉を探して、頬を少し膨らませた。
エイヴァが肩で小さく笑う。
「グロー、言い方を直しな」
「助かった。よく見た」
言い直すと、リリィは今度こそ固まった。
それから、慌てて下を向いた。
「……うん」
「何だ」
「何でもないです」
耳の先が赤い。
よくわからん。
ただ、悪くはなかったらしい。
その夜、納屋の隅は寒かったが、馬小屋よりはずっとましだった。
リリィは干し草の上に外套を敷き、スープの器を両手で抱えたまま眠りかけた。俺は器を取り上げ、横に寝かせる。文句を言うかと思ったが、もう半分寝ていた。
「寝ろ」
「……起きてます」
「嘘をつけ」
「ちょっとだけ」
「それも嘘だ」
リリィは目を閉じたまま、小さく笑った。
エイヴァはリリィの肩口に丸くなっていた。羽がしぼんで、いつもより小さい。
「おまえも寝ろ」
「見張りは?」
「俺がやる」
「君も寝なきゃ、明日さらに無愛想になるよ」
「元からだ」
「自覚があるなら直しな」
「寝ろ」
「はいはい」
エイヴァは嘴を羽に埋めた。
俺は納屋の入口に座り、斧を手の届くところに置いた。
宿場は夜になると、昼より音が増える。馬の鼻息。水を汲む音。酒に酔った男の笑い声。湿った薪がはぜる音。遠くで、子供の咳。
それから、数を数える声。
一、二、三。
少し間があく。
一、二、三。
泣き声は、やはり聞こえなかった。




