第06話-2◆井戸を直す
宿の裏へ回ると、井戸は思ったより古かった。
丸い石組み。横に立つ木の柱。上には滑車と巻き上げ棒。縄は太いが、濡れて重くなっている。桶を吊るす金具が歪み、滑車の軸が片側へずれていた。
水を汲もうとしていた若い男が、俺を見るなり後ずさった。
「手を離すな」
俺が言うと、男は慌てて縄を握り直した。危ない。桶が落ちれば、縄も金具も余計に壊れる。
「離していいとは言ってない」
「す、すまん」
「謝る前に持て」
近くにいた荷運び人が二人、こっちを見ていた。
「オークに井戸なんか触らせて大丈夫か」
「壊す方が早そうだな」
聞こえる声だった。
リリィの眉が小さく動く。
俺は何も返さなかった。返すより、直した方が早い。
リリィが井戸の縁に近づこうとしたので、俺は視線だけで止めた。
「そこまで」
「見てるだけです」
「縁が濡れてる。滑る」
「……はい」
返事が少し遅い。足が痛いのか、眠いのか、両方か。
俺は近くの木箱を足で寄せた。
「座れ」
「手伝います」
「座るのも仕事だ。倒れられると困る」
「それ、仕事ですか」
「俺にとってはな」
リリィは納得していない顔で木箱に腰を下ろした。
エイヴァがその膝に降り、小声で言う。
「休めと言われた時は休むんだよ。でかいのが珍しくまともなことを言ってる」
「珍しく?」
「うるさい鳥だな」
俺は斧を外し、荷から細い布と短い釘、予備の紐を出した。
宿の主人が後ろで腕を組む。
「そんなもので直るのか」
「直すんじゃない。今夜使えるようにする」
「同じじゃないのか」
「違う」
軸は割れかけている。完全に直すには木を替えた方がいい。だが、今夜だけなら、ずれを戻して、摩擦を減らして、縄の噛みを逃がせば持つ。
俺は若い男に縄を固定させ、滑車の横へ手を入れた。
木が水を吸って膨らんでいる。泥と砂も噛んでいた。爪で取れる分を掻き出し、布を巻いて隙間を埋める。釘を打つ場所を見て、柱のひびを避けた。
荷運び人の一人が鼻で笑う。
「細かいことしてんな」
「力で押し込むだけかと思った」
宿の主人も同じことを言った。
俺は釘の角度を見たまま答えた。
「それだと明日折れる」
「明日なら別に」
「折れたら水が汲めない。客が怒る。おまえが困る」
「……あんた、意外と細かいな」
「よく言われる」
嘘だ。あまり言われない。
エイヴァがすかさず小声で言った。
「嘘をつくんじゃないよ。君は大雑把な顔で細かいことをするから、周りが反応に困るだけだ」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったんだよ」
リリィが木箱の上で笑いかけて、すぐ口を押さえた。
宿の主人が小鳥を見る。
エイヴァは首をかしげて「ぴっ」と鳴いた。
ごまかしは上手い。
ただ、疲れてきたのか羽が少し下がっている。
俺は滑車を押さえ、巻き上げ棒を若い男に回させた。
「ゆっくり」
「お、おう」
「速い」
「これで速いのか」
「速い」
桶が上がる。途中で一度、縄が跳ねた。俺は手首で受けて、噛みを外す。滑車が嫌な音を立てたが、止まらない。
桶が井戸の縁まで来た。
水が入っている。こぼれていない。
荷運び人たちの声が止まった。
主人の目つきも変わった。
「もう一回」
「水を出したらな」
桶の水を大きな甕へ移す。今度は主人にも巻き上げ棒を回させた。腕の使い方が悪い。力を入れる場所も悪い。だが、説明しすぎると嫌がる顔なので、必要なところだけ言う。
「肩で押すな。腰を入れろ」
「腰?」
「そうだ。棒を殴るな。押して送れ」
「井戸に説教される日が来るとはな」
「井戸じゃない。俺だ」
「もっと嫌だ」
リリィがまた笑った。
その笑いが途中で止まった。
俺は顔を上げる。
宿の裏の細い通路の向こうに、低い建物があった。宿の一部ではない。倉庫に見えるが、入口に白い布が掛かっている。中から、小さな咳がした。
リリィの耳がぴくりと動いた。
エルフの耳はよく聞く。疲れていると、余計に拾ってしまうことがある。
俺は井戸の縄を固定しながら訊いた。
「何が聞こえた」
リリィは少し迷った。
宿の主人がこちらを見ている。白い布の建物にも、人の気配がある。
リリィは声を落とした。
「子供の声です」
「どんな」
「咳と……あと、数を言ってる声」
「数?」
「一、二、三って。泣いたら、最初からって」
俺は手を止めかけた。
止めるな。今は井戸だ。
井戸を直して、ここに残る。残れなければ何も見えない。
俺は釘を打ち直した。
白い布の向こうから、低い大人の声がした。
「もう一度。三つ数えたら、いい子だ」
優しい声だった。
優しすぎて、背中がむずつく声だ。
すぐあとに、小さな声が続いた。
「いち、に、さん」
「泣かない。いい子だ」
白い布の隙間から、白い手袋が一瞬だけ見えた。子供の頭巾を直す手だ。乱暴ではない。だが、指の動きに慣れがありすぎた。
何度もやっている手だった。
主人がわざとらしく咳払いをした。
「裏の休憩部屋だ。巡礼の子供を休ませてるだけだ。うちの客じゃない」
「巡礼?」
「そう名乗ってる連中が使う。白い馬車のな。金払いはいいし、騒がない。こっちとしては助かる」
「子供が騒がないのは助かるか」
声が低くなった。
主人は一歩下がった。
「俺がやってるわけじゃない。場所を貸してるだけだ」
「菓子も出すのか」
「向こうが持ってくる。甘いやつだ。子供は喜ぶだろ」
リリィの手が膝の上で握られた。
エイヴァがその手の甲を、くちばしで軽くつつく。落ち着け、という合図だ。
リリィは息を吸って、吐いた。
「外套を着せられていました」
小さな声だった。
俺にだけ届くと思ったのかもしれない。だが、主人にも聞こえた。
「外套?」
「深い頭巾です。耳も、髪も隠れます」
主人は目をそらした。
「旅の子供は冷えるからな」
「全員ですか」
「知らん」
嘘の匂いはしない。知りたくない顔だ。
俺は巻き上げ棒を回し、最後にもう一杯水を汲ませた。音はまだ悪いが、使える。
「今夜は持つ。明日、修理屋を呼べ」
主人は井戸を見て、俺を見た。
「……納屋の隅だ。スープは後で持っていかせる」
「温かいやつだな」
「冷たいスープなんか出すか」
「ならいい」
リリィが少しだけ目を丸くした。
「よかった」
その一言が、思ったより小さかった。




