第05話-4◆宿場の入口で
歩き出してしばらくして、リリィが小さく言った。
「グローさん」
「ああ」
「少しだけ、舐めてもいいですか」
「駄目だと言った」
「危ないかどうか、ちゃんと知りたいんです」
俺は足を止めた。
リリィは包みを握っていた。腹が減っている子供の顔ではない。怖がっている顔でもある。けれど、それだけではなかった。
姉がこれを舐めたかもしれない。
そう考えた顔だ。
エイヴァが低く言う。
「全部は駄目だよ。舌先に触れるだけ。それで苦しくなったら、すぐ吐き出す」
「エイヴァ」
「止めるだけなら簡単さ。でも、この子はきっと、ずっと味を想像する。想像の方が毒になることもある」
面倒なことを言う。
だが、間違ってはいない。
俺は周囲を見た。湿地の道。人影なし。風は弱い。逃げるなら来た道。水はある。リリィが倒れた場合、抱えて戻れる距離だ。
「半分じゃない」
「うん」
「舌先だけだ」
「うん」
「変だと思ったら吐け。もったいないとか思うな」
「思いません」
「思いそうな顔だ」
「……ちょっとだけ」
「正直でいい。吐け」
「まだ舐めてないです」
リリィは包みを開き、白い飴の欠片を指先で持った。
ほんの少しだけ、舌に触れさせる。
すぐに離した。
目を閉じる。
俺はリリィの顔色を見た。唇。呼吸。手の震え。足元。異常はない。だが、リリィの眉がゆっくり寄った。
「甘いです」
「それはわかる」
「でも、あとから、草みたいな味がします。里の薬より、少し冷たい感じ」
「魔力は」
「ざわざわは、少し静かになります。耳の奥の音も、小さくなる。でも……静かすぎるのは、いやです」
「どう嫌なんだ」
リリィは胸元を押さえた。
「眠いのとは違います。怖いのに、怖いって思うところだけ布をかけられるみたいです。泣きたいのに、泣く場所がわからなくなる感じ」
エイヴァの羽が、わずかにしぼんだ。
俺は飴を見た。
甘いだけのものなら、こんな顔にはならない。
「もういい。しまえ」
「はい」
リリィは飴をすぐ包みに戻した。
自分で戻した。
それだけで、少し安心した。
リリィは包みを丁寧に折った。大事なものみたいに。だが、食べ物としてではない。手掛かりとしてだ。
胸元にしまう前に、リリィは小さくつぶやいた。
「姉さんも、これを食べたかもしれない」
風が湿った草を揺らした。
俺は少しだけ言葉を探した。
大丈夫だ、と言えば嘘になる。
食べていない、とも言えない。
食べていたら助かる、とも違う。
だから、言えることだけ言った。
「なら、味を覚えとけ」
リリィが顔を上げる。
「味?」
「ああ。会った時に聞けるだろ。同じ味だったかって」
リリィは一瞬、泣きそうな顔をした。
それから、強くうなずいた。
「うん。覚えます」
エイヴァがリリィの肩で、いつもより静かに羽を整えた。
「いいかい、リリィ。甘さに騙されるんじゃないよ」
「うん」
「でも、甘かったことまで忘れなくていい。悪いものが、全部苦い顔をしてくれるわけじゃないからね」
「……難しい」
「難しいから、年寄りがいるんだよ」
「小鳥です」
「年寄りの小鳥だよ」
リリィが少しだけ笑った。
俺は荷袋を担ぎ直す。柔らかいパンの重さが、さっきより少しだけありがたい。飴の甘さは不穏だが、パンはただの飯だ。ただの飯は強い。
湿地側の道には、白い馬車の轍が続いていた。
泥に沈む細い車輪跡。片側が少し深い。草の葉に白い紙の欠片がもう一つ引っかかっている。先へ進めば、宿場がある。白い馬車が子供を休ませる仮の寝床があるかもしれない。
リリィの足音は少し遅い。
俺は歩幅を落とした。
「急ぐんじゃないんですか」
「急ぐ」
「じゃあ、どうして遅くするんですか」
「おまえが転んだらもっと遅い」
「転びません」
「その返事は信用しない」
「むう」
リリィが頬をふくらませた。
エイヴァが「ぴっ」と鳴く。
「今のは普通の小鳥として、グローに一票だね」
「エイヴァまで」
「足は大事だよ。甘い飴より、まともな靴の方が子供を遠くへ運ぶ」
俺はリリィの足元を見る。中古の新しい靴。布で直したかかと。泥を踏むたび、少しだけ沈む。
それでもリリィは前を見ていた。
飴の包みを胸元にしまい、青い布片もそこにある。甘さと不穏と、姉へ続くかもしれない糸を、全部抱えて歩いている。
白い馬車は見えない。
だが、道は残っている。
湿地の向こう、低い煙が上がっていた。宿場の煙だろう。飯か、濡れた薪か、誰かを休ませるための火か。
俺は斧の柄を握り直し、リリィの外側に立った。
「行くぞ。暗くなる前に床を探す」
「床?」
「寝る場所だ」
「宿ですか」
「金があればな」
「なかったら?」
「床だ」
リリィは少し考えて、真面目に訊いた。
「床って、高いですか」
「だいたい高い」
エイヴァが肩の上で丸くなりながら、深くため息をついた。
「やれやれ。旅は甘い飴一つじゃどうにもならないねえ」
「パンはある」
「柔らかいやつだろうね」
「ああ」
「なら、少しはましだ」
リリィが胸元を押さえ、小さくうなずく。
俺たちは湿地側へ進んだ。
白い馬車の轍は、泥の中で細く、しつこく、宿場の方へ続いていた。
宿場の入口が見える頃には、空の下が薄く赤くなっていた。
小さな柵。傾いた看板。濡れた薪の煙。人の声はある。馬の鳴き声もある。だが、子供の声だけが妙に少ない。
リリィが先に気づいた。
「グローさん」
「ああ」
道端の溝に、白い包み紙が貼りついていた。
一つではない。
泥水を吸って半透明になった白い紙が、溝の縁に三つ、四つ、もっと奥にも続いている。どれも小さく丸められ、内側に薄い黄色の粉が残っていた。
俺はしゃがみ、ひとつを拾わずに見た。
甘い匂いが、湿った泥の上からでもわずかに立っている。
その先、宿場の軒下に、深い頭巾をかぶった小さな影が三つ並んでいた。
笑い声はない。
泣き声もない。
ただ、白い包みを握ったまま、こちらを見ていた。




