第05話-2◆荷車と泥とロバ
その時、湿地側の道の奥から、獣の鳴き声と男の怒鳴り声がした。
「おい、引け! 引けって言ってるだろ!」
俺は斧の柄に手を置いた。
敵ではない。声が焦っているだけだ。だが、焦っている人間はたいてい余計なことをする。
湿地側へ少し進むと、荷車が泥にはまっていた。
小さな行商人の荷車だ。車輪の片方が黒い泥に半分沈み、痩せたロバが前で耳を伏せている。荷台には布袋と鍋、古道具、そしてパンらしき包みが積まれていた。
行商人は俺を見るなり、顔を引きつらせた。
「お、オーク……?」
「違うと言えば安心するか」
「いや、そういうわけじゃ……」
「はまってるぞ」
「見ればわかる!」
「なら叫ぶな。ロバが余計に嫌がる」
行商人は口を開けたまま、ロバを見た。ロバは俺の顔を見て、さらに耳を伏せる。失礼な獣だ。
リリィが俺の外套の端をつかんだ。
「助けますか」
「報酬次第だ」
行商人の顔がさらに固くなる。
「金はあまりない」
「食い物でいい」
「食い物も売り物だ」
「じゃあそこで沈んでろ」
俺が背を向けかけると、行商人が慌てた。
「待て、待て! パンなら少し出す。潰れたやつだぞ。形が悪くて町じゃ売りにくい」
「柔らかいか」
「今朝焼いた。少しは」
俺はリリィの靴を見た。泥道を進むなら、休ませる理由が欲しかった。行商人の荷車はちょうどいい。
「リリィ、あの石の上で休め。泥へ降りるな」
「手伝えます」
「見てろ。手伝うところがあったら呼ぶ」
「ほんとうに?」
「勝手に来るなという意味だ」
「……はい」
リリィは少しむくれた顔で石に座った。エイヴァがその膝の上に降りる。
「やれやれ。君は本当に、言い方を直す努力だけはどこかへ落としてきたね」
「拾ったら渡せ」
「捨てたんだろうに」
俺は荷車の横へ回った。
力任せに引くと車軸が折れる。泥に沈んだ車輪は、持ち上げるより先に逃げ道を作る必要がある。足元の泥を斧の背で削り、近くの平たい石を二枚、車輪の前へ押し込んだ。
行商人が目を丸くする。
「引っ張るんじゃないのか」
「引くだけならロバで足りる」
「足りてないから困ってるんだが」
「だから道を作る」
俺は荷台の重そうな布袋を二つ下ろした。中身は粉か豆だろう。湿気るとまずいので、草の上へ置く。ロバの手綱を少し緩め、鼻先を叩かず、首筋を押さえた。
「こいつを殴るな。余計踏ん張る」
「殴ってない」
「怒鳴ってる」
「……それは、した」
「しない方がましだ」
ロバが俺の手の匂いを嗅いだあと、ふん、と鼻を鳴らした。まだ俺を信用していない顔だ。顔で判断するな。俺もおまえの顔を信用してない。
後ろでリリィが小さく笑った。
「今、ロバとにらめっこしてました」
「交渉だ」
「勝てそうですか」
「相手が強情だ」
エイヴァが得意げに胸を張る。
「獣相手の交渉なら、アタシに任せな」
「鳥が口を出すと話が増える」
「ぴっ」
「普通の小鳥になるのが遅い」
リリィは口元を押さえていた。疲れている顔だが、笑えているなら悪くない。
俺は荷車の後ろへ回り、車軸の下に肩を入れた。
「合図でロバを前へ。急に引くな」
行商人がうなずく。
「お、おう」
「リリィ、泥が跳ねる。顔を下げるな」
「うん」
「エイヴァは飛べ」
「小鳥への指示が雑だねえ」
「飛べるだろ」
「飛べるとも。偉大だからね」
白い毛玉がふわりと浮く。
俺は息を吐き、肩と腕に力を入れた。
泥が吸いつく。車輪の半分を飲んだ黒い土が、荷車を下へ引きずり戻そうとする。車軸がきしんだ。普通なら、ここで諦める。車輪の周りをさらに掘るか、荷を全部下ろすか、馬をもう一頭呼ぶ。
俺は足を踏み込んだ。
靴底の下で、湿った道が皿みたいにへこんだ。
背中から肩へ、肩から腕へ、重さが乗る。骨が鳴る前に、力の向きをずらす。荷車を上げるんじゃない。泥の噛みつきを、少しだけ剥がす。
車輪が、ずるりと鳴った。
行商人の息が止まる音がした。
リリィも黙った。
こういう時の沈黙は嫌いじゃない。怖がられているのはわかる。だが、今はその怖さが役に立つ。
「今だ」
行商人がロバを引く。
ロバは一拍遅れたが、前へ出た。石に乗った車輪がぐらりと上がる。泥が跳ねた。俺の外套にかかった。顔には来なかった。今回は勝ちだ。
荷車が泥から抜けた。
俺は肩を抜き、泥の上に立ったまま、少し息を吐いた。腕が重い。だが、表に出すほどじゃない。




