第03話-2◆荷獣と白い馬車
「グローさん」
柵の向こうからリリィの声。
俺は振り向かずに言った。
「下がってろ」
「うん。……左の後ろ足、少し遅いです」
観客の声に紛れそうな小さい声だった。
だが、聞こえた。
俺は口元だけ少し歪める。
「見えてる」
「はい」
「助かる」
リリィが黙った気配がした。たぶん固まっている。褒めると止まるのはどうにかした方がいい。
鎖が外された。
荷獣が走った。
でかい。重い。速い。だが、直線だけだ。
俺は斧を地面に置いた。
観衆がざわつく。
武器を捨てたと思ったのだろう。違う。斧を持ったまま止めると、手が勝手に刃を使いたがる。殺さないなら邪魔だ。
荷獣が真正面から来る。
俺は逃げない。
鼻面が届く寸前、右へ半歩。荷獣の左肩へ自分の肩を入れる。ぶつかるのではない。流す。相手の重さを正面から受けず、向きをずらす。
足元の砂を踏んだ。
荷獣の左後ろ足が遅れた。
俺はその一拍に合わせて、荷獣の首輪の革を掴み、体ごと回した。腕だけでは止まらない。腰、足、肩。全部使う。
石畳が鳴った。
荷獣の巨体が半回転し、勢いを殺されて横へ流れる。荷箱が揺れたが、落ちない。
まだ暴れる。
俺は首輪から手を離さず、荷獣の目の横へ自分の顔を寄せた。獣は正面の敵には向かう。だが、横に貼りつかれると嫌がる。
鼻息が熱い。
「止まれ」
低く言った。
言葉が通じるわけじゃない。声の低さと息の出し方だ。傭兵時代、馬を潰すやつは嫌われた。荷獣を殺すやつはもっと嫌われた。運ぶものがなければ、戦う前に負ける。
荷獣がもう一度跳ねようとする。
俺は右手で首輪を引き、左手で鼻面の下を押さえた。上ではなく下。頭を上げさせない。暴れる力を地面へ落とす。
一歩。
二歩。
三歩。
荷獣の膝が折れる寸前で、力を抜く。
完全に倒せば荷が壊れる。倒さず、止める。
荷獣は荒く息を吐き、石畳を前足でかいた。だが、もう走れない。
俺は手を離した。
広場が静かだった。
派手さはない。剣も振っていない。血も出ていない。見世物としては地味だろう。
だが、役場席の連中の顔は少し変わっていた。
「……荷箱が揺れただけか」
「殺してない。倒してもいないぞ」
そんな声が、上の席から落ちてくる。
わかるやつにはわかる。
重い獣を殺さず、荷を壊さず、観衆へ逃がさず止めるのは、魔獣を派手に倒すより面倒だ。
先に拍手したのは、リリィだった。
小さな手で、ぱち、と一回。
慌てて止めようとして、もう一度、ぱち。
エイヴァが「ぴっ、ぴっ」と鳴く。
それにつられて、少しだけ拍手が広がった。
少しだけだ。
派手な歓声ではない。
バランが中央へ歩いてきた。
「なるほど。怖がられる理由はわかるよ」
「褒めるなら下手だな」
「褒めているさ。ぼくならもっと華やかに止める」
「荷箱を壊してな」
バランの笑みが一瞬だけ深くなった。
「言うじゃないか」
「事実だ」
ベルニーが遠くから短く言った。
「今のは、グローが正しい」
バランが振り向く。
「ベルニー?」
「荷を壊さない試験」
「わかっているよ」
「ならいい」
バランは少しだけ不満そうに肩をすくめた。だが、観衆へ向く時には、もう笑顔に戻っている。切り替えが早い。鬱陶しいが、そこは強い。
司会役が慌てて札を見た。
「ええ、赤札グロー、試験達成。危険預かり金の再審査対象とする」
「下がるのか」
「役場判断だ」
「今決めろ」
「無茶を言うな!」
役場席で何人かがひそひそ話す。すぐには決まらない。予想通りだ。町は金を取る時だけ早い。
俺が戻ろうとした時、エイヴァがリリィの肩で首だけを動かした。
「……裏の通路、さっきから荷じゃないものが通ってるね」
リリィが柵の向こうで何かに気づいた。
目の動きが変わる。
笑いかけていた顔から、すっと色が抜けた。
「リリィ」
俺は声をかけた。
リリィは返事をしない。視線は広場の奥、役場席のさらに裏。荷を運び込む小さな通路の方へ向いている。
白い布。
一瞬だけ見えた。
人混みの間を、白い覆いのかかった小さな馬車が通る。巡礼用に見える。側面には白い布。車輪は細い。大きな商隊用ではない。中庭の裏口を抜け、町の奥へ向かっている。
その後ろに、子供用の外套が積まれていた。
耳を隠せる、深い頭巾付きの外套。
リリィの指が柵を握った。
「グローさん」
「ああ」
「あれ」
「見えた」
エイヴァがリリィの肩で普通の小鳥のふりをやめた。小声で言う。
「白い馬車だね」
リリィは息を吸った。
走り出しそうな足を、俺は手で止めた。
「行くな」
「でも」
「今行ったら捕まる」
「でも、あれ、昨日の」
「わかってる」
俺は声を低くした。
「見る。追うのはその後だ」
リリィは唇を噛んだ。目は馬車の消えた通路から離れない。新しい靴のつま先が、石畳を少しこすった。
行きたい。
置いていかれたくない。
たぶん、その両方だ。
「リリィ」
「……はい」
「次は言え。勝手に走るな」
リリィは小さくうなずいた。
「言いました」
「そうだな」
俺は短く返す。
「助かった」
リリィの肩が、ほんの少し震えた。怖さか、嬉しさか、両方か。俺にはそこまではわからない。ただ、柵を握る指の力は少し緩んだ。




