第81話 中学のジャージ
昨日の夕立は、坂道にまだ残っていた。
日陰の水たまりと、湿ったコンクリートの匂い。午前授業と大掃除で埃っぽくなった身体に、坂を上ってくる海風が気持ちよかった。空は憎らしいほどの快晴で、蝉は今日も全力である。
麻貴はいつも通りの帰り道を、汐織と並んで歩いていた。
いつも通り、と言いたいところだったが、ひとつだけ気になることがある。隣を歩く彼女の通学鞄が、どう見てもぱんぱんに膨らんでいるのだ。学期末で教科書を持ち帰ったにしても、限度というものがある。
「鞄、持とうか? なんかすげー膨らんでるけど」
「だ、大丈夫! 自分で持てるから」
「重そうに見えるけど」
「重くないよ。……ちょっとだけ、かさばってるだけ」
汐織は慌てた様子で、鞄を麻貴と反対側の肩に持ち替えた。かさばってる、の中身は訊かないでおく。本人が庇うものを、わざわざ暴くこともないだろう。
アパートの外階段を上がり、部屋に入って、ふたりで順番に手を洗う。麻貴が麦茶を出している間に、汐織はローテーブルの脇で鞄を開けた。中から出てきたのは、綺麗に洗って畳まれた昨日の部屋着。その下に、もうひとつ布の包みが重なっていた。
「新しい着替え、持ってきてたの」
「あー、それでかさばってたのか。てか、わざわざ学校まで持ってこなくてもよかったのに」
「だって、いつまた雨に降られるかわからないでしょ? あと……追加のも」
「追加の?」
汐織はこくりと頷いて、上目でこちらを窺ってきた。
「うん。何着か置いておこうと思って。……だめ?」
「……いや。全然いいけど」
「じゃあ、遠慮なく」
汐織は嬉しそうに立ち上がると、クローゼットの隅に着替えを納めた。あの紙袋が置かれていた一角が、そのまま彼女の定位置になったらしい。
狭いクローゼットの中で、麻貴の服が少しだけ端に寄せられる。それだけのことが、妙にくすぐったかった。
と、畳まれたTシャツの下から、見慣れない紺色の生地が覗いていた。麻貴は深く考えもせず、その端をつまんで引き出し、広げてみる。上着だった。胸元に、白い文字の刺繍がある。
「なんだこれ。紺色の……ジャージ?」
「あっ、待って」
「胸に『中学』って書いてあるんだけど」
「もう、勝手に見ないでよ!」
汐織が飛びついてきて、麻貴の手からジャージを奪い返した。胸に抱え込んで、じとっとした目で睨んでくる。
耳が赤くなっていた。どうやら予備の着替えに、中学時代のジャージを持ってきたようだ。確かに動きやすくて、部屋着には向いているのかもしれない。
それはそれとして。
「どうせなら着てよ」
「え、今!?」
「うん」
「なんで……? 別に今は着替えなくてもいいでしょ?」
正論だった。ふたりともまだ制服のままであるし、今日は雨も降っていない。着替える理由が、どこにもなかった。
しかし、折れない。
「いや、だって見たいし」
「理由になってない!」
理由になっていないのは百も承知だったので、麻貴はただ「見たい」を繰り返す作戦に出た。汐織は「やだ」「恥ずかしい」「意味がわかんない」と防戦を続けていたが、理屈で押し返そうにも、こちらに理屈がないのだから押し返しようがない。やがて彼女は、抱えたジャージに顔を半分埋めて、観念したように息を吐いた。
「……そんなに、見たいの?」
「見たいです」
「いいけど……笑ったら怒るよ?」
汐織はそう言い残すと、ジャージ一式を抱えてユニットバスへ消えていった。
ドアの向こうから、ことり、と小さな音がする。
麻貴はその気配から意識を引き剥がすついでに、自分も制服からTシャツとスウェットに着替えた。麦茶を注ぎ足し、ローテーブルの前に座って待つ。衣擦れの音。水音はなし。それから、ためらうような間があって、かちゃりとドアが開いた。
そこには、中学時代のジャージを着た恋人の姿。高校のジャージと違って見慣れないのもあり、まじまじと見つめてしまった。
「やだ……そんなに見ないでよ」
麻貴の視線に耐えられなかったのか、汐織がもじもじとする。
「……可愛い」
つい、本音が漏れてしまった。
恥ずかしがっている姿込みで、可愛い。
中学の頃から体型が変わっていないのか、サイズに不自然さはなかった。
「中学の頃のジャージだよ? 子供っぽくない?」
「胸の『中学』の文字を見なきゃ、ちょっと色の派手なジャージだよ」
汐織は袖を引っ張りながら、口を尖らせる。
「それが恥ずかしいんだってば」
「自分で持ってきたくせに……」
「だって……家ではもう、着れないし。ここでなら、いいかなって」
なんでもないことのように、汐織は言った。
言ってから、自分の言葉に気付いたらしく、少しだけ笑ってみせる。
麻貴は言葉を選びかけて、やめた。何となく、彼女が家で着れないという意味が、わかってしまったからだ。
あの家では、もう気を抜くという選択肢さえも彼女にはないのだろう。それがわかれば、今は十分だ。訊かないと決めたのは、この台所が始まった日からの、ふたりのルールである。
伸ばしかけた手を、麦茶のグラスに逃がした。ひとくち飲んで、軽口に舵を切る。
「……中学の奴、いいなぁ。汐織の中学の体操着姿も見れてさ」
「なあに、それ」
汐織がくすっと吹き出した。それから、悪戯っぽく首を傾げる。
「じゃあ、麻貴くんはどっちも見れたことになるよ? 中学のも、高校のも」
「それは、汐織と同中の奴も見れるだろ。王子とか」
「それは……そうだけど」
「俺だけしか見れないのは?」
汐織がぴたりと固まった。
視線が泳いで、頬にじわじわと赤みが上ってくる。
「……えっち」
「そういう意味では、ないんだけど」
「じゃあ、どういう意味なの?」
「俺だけの、特別的な?」
沈黙が一拍。
汐織は赤い顔のまま口をぱくぱくさせていたが、やがて、ひらめいた顔になった。すたすたと台所へ歩いていき、壁のフックからあの無地のエプロンを外し、頭からかぶる。背中できゅっと紐を結ぶ音がして、それから、くるりと振り返った。
「じゃあ……こういうのは?」
中学のジャージの上に、いつものエプロン。
この部屋でしか見られない篠宮汐織の、最新版だった。
「……最高です」
「拝まないでよ」
思わず合わせていた両手を、慌てて解く。汐織は堪えきれなくなったように笑い出し、麻貴もつられて笑った。ひとしきり笑いが収まってから、彼女はエプロンの裾を軽く払う。
「……じゃあ、そのまま作っちゃおうかな。お昼」
「その格好で?」
「もう見られちゃったし。……今さらかなって」
昼食は、冷蔵庫の残り物を片付ける焼きそばになった。使いかけの豚肉と、野菜室の端に残っていたキャベツと人参。汐織が具を刻み、麻貴が言われるままに麺をほぐした。ソースの匂いが換気扇に吸われていく。
中学のジャージにエプロンで台所に立つ後ろ姿を、麻貴は一度だけ確かめて、それきり麺に集中した。
*
焼きそばを平らげたあとの午後は、気だるかった。
扇風機が首を振り、窓の外では蝉が鳴き続けている。
麻貴は夏休みの課題を開いたまま一問も進めておらず、汐織はエプロンだけ外したジャージ姿で、本棚から勝手に抜いたマンガを読んでいた。ページをめくる音と、扇風機の風の音。畳に落ちる日差しが、いつのまにか角度を変えて、オレンジがかっている。
先に気付いたのは汐織だった。マンガから顔を上げて、壁の時計に小さく声を上げる。
「わ、もうこんな時間」
「昼寝はしてないはずなんだけどな」
「寝てたよ? 二十分くらい」
「……マジか」
道理で課題が進んでいないわけである。いや、寝ていなくても進んでいなかった気はするが。
汐織は何かを思い出したように立ち上がって台所へ行くと、冷蔵庫を開けた。庫内を覗き込んで、困ったように振り返る。
「やっぱり……麻貴くん、買い出し行こ?」
「え、もうない?」
「うん、ほら。冷蔵庫、もう空っぽ」
汐織がこちらに冷蔵庫の中を見せるように、少し扉を広げてみせた。
「夕飯は、どうにか……」
「ならないかなぁ」
「じゃあ、行くか」
今から外に出るのは億劫だが、食べるものがないなら仕方ない。
頷いてから、汐織は冷蔵庫を閉めた。それから玄関のほうへ歩きかけて──。
「あ、服着替えなきゃ」
思い出したように自分の服装を見下ろして、言った。
「え、なんで」
「なんでって……買い物に行くんでしょ?」
「それで行けばよくね?」
汐織の足が止まった。ゆっくりとこちらを振り返る。その顔には「正気?」と書いてあった。
「え、やだ。恥ずかしい」
「えー。なんで。いいじゃん、別に」
「もし学校の子に見られたらどうするの?」
「もう散々見られてるって」
これも理屈は通っていなかったらしく、汐織の眉がきゅっと上がる。
「そういう意味じゃないってば。体操着姿を見られたくないの」
「だって、せっかく着たのに、もったいないだろ」
「もったいないってなに!?」
押し問答は、玄関とローテーブルの間で数分続いた。制服に着替え直す、という汐織の案は麻貴が却下し、このまま行く、という麻貴の案は汐織が全力で却下した。論点は最後まで噛み合わなかったが、根負けしたのは彼女のほうだった。
「じゃあ……下だけなら」
「上は?」
「Tシャツ。さすがに中学のジャージで外は歩きたくないよ……」
「まあ、そこが落としどころか。交渉成立としよう」
汐織は「私は全然納得してないよ?」と念を押しながら、着替えを持ってユニットバスへ入っていった。出てきた彼女は、上が白いTシャツ、下が紺色のハーフパンツという出で立ちである。ジャージの上着は、きちんと畳んでクローゼットの定位置に戻された。
麻貴は自分のTシャツとスウェットを指して、胸を張ってみせる。
「ほら、体操着とスウェットだと近いだろ?」
「それは……どうなんだろう?」
汐織は怪訝そうに麻貴の上下を見比べていたが、結局それ以上は追及せず、玄関で靴を履いた。
外に出ると、日はだいぶ傾いていた。
坂の下で海が光り、電線の影が路面に伸びている。蝉の声は、昼間の全力からいくらか勢いを落としていた。ふたりの影も長く、繋いだ手のところで一本に繋がっている。
隣を歩く汐織は、まだ少し不満そうだった。
「うぅ……恥ずかしいよぉ」
人とすれ違うたびに、こんな風にぼやいていた。
そして、物言いたげにこちらを見上げる。
「どうして私だけ恥ずかしい思いしてるの……?」
「上がシャツなら、誰も気にしないって」
「そうだけど……ハーフパンツで外に出るのが、そもそも恥ずかしいんだってば」
「そういうもんか」
汐織は唇を尖らせたまま、ちらりとこちらを見上げてくる。
「今度は麻貴くんも、中学のジャージ着てよね?」
「え、俺持ってないよ。もう捨てたし」
「えー、ずるい!」
抗議の声が、夕方の住宅街に響いた。スーパーの袋をぶら下げて帰る買い物客が、ちらりとこちらを振り返る。汐織が慌てて口を押さえ、ふたりで首をすくめて笑った。
それから少しの間、黙って坂を下った。
汐織の歩幅に合わせて、ハーフパンツの裾が揺れる。紺色の生地は、真昼に部屋で見たときとは違う、深い色に見えた。
麻貴は前を向いたまま、口を開いた。
「なんだかさぁ」
「ん?」
「こうやってジャージ姿でスーパーに行くとさ。……ほんとに付き合ってるんだな、俺たち」
「うん……そうだね」
汐織が、繋いだ手を軽く揺らした。
告白も、キスも、教室での公認も、とっくに済んでいる。それなのに、実感というのは、こういう何気ない夕方にいちばん濃くなるらしかった。
「なんか、こう。汐織の無防備な姿を外で見てると、余計にそう思った」
「……やっぱり私だけ恥ずかしい思いしてるの、おかしいと思う」
改めて不服そうに言いながら、汐織は繋いだ手を、一度だけ握り直した。
坂の下で、海がまだ光っていた。




