第82話 夏休みの予定
体育館の空気は、朝の九時からもう煮えていた。
麻貴は二年F組の列の後ろに立って、壇上の校長の話を聞き流していた。開け放たれた扉から潮の匂いの混じった風が入ってはくるものの、全校生徒の熱には到底追いつかない。隣では隼太が、腕を組んだまま首をこくりこくりと揺らしていた。
女子の列は、男子より二列ほど前にあった。その中ほどに、腰まで届く黒髪の後ろ姿がある。
汐織だ。彼女は背筋をぴんと伸ばして、壇上に顔を向けていた。こちらからは後ろ姿しか見えていない。それでも、その一点だけが、暑さに歪んだ体育館の中でやけにくっきりしていた。
去年の終業式は、誰かの後ろ姿を探したりはしなかった。鎌蔵の実家で、母親の作った飯を食って、何も考えずに夏休みに入った。親元を離れて迎える夏休みは、これが初めてになる。
そこまで考えたところで、校長の話が「以上です」と終わった。体育館のあちこちから、安堵の息が漏れている。隣で隼太が寝ぼけたまま拍手をしかけたので、麻貴が慌てて肘で突いて止めた。
教室に戻ってからのホームルームは、短かった。
担任の長田が教卓に立ち、左手をズボンのポケットに突っ込んだまま、右手だけで通知表の束を配っていく。名前を呼ばれて取りに行き、席に戻った。それから、夏休みの課題のプリントを一枚ずつ指差しての説明が続いた。数学のワーク、英語の長文、読書感想文、その他諸々。あまりの膨大な量に、指が一枚進むたびに教室のどこかで小さな呻き声が上がる。
「課題の提出は始業式。当日に泣きつかれても知らんぞ」
教室のあちこちで、乾いた笑いが起きた。
無論、麻貴はとてもではないが笑えない。正直、間に合う気がしなかった。
(……うへぇ。ちゃんと予定立ててやらないと、ほんとに間に合わないぞ、これ)
喟然としつつ、机の下で通知表を開いた。
成績については、セーフ。上がってもいないが、特別落ちてもいない。
独り暮らしの条件は『落とさないこと』だ。その条件だけは、しっかりと満たしてある。
(一応、送っておくか)
通知表の中身をスマホで撮って、そのまま母親に送っておいた。
返信は、ホームルームが終わる前に来た。
【あら、意外。二学期もこの調子で頑張りなさいね】
意外とは何だ、意外とは。
そう返そうとすると、続けてもう一通届いた。
【ちゃんと食べてる?】
一瞬、息が詰まった。
ちゃんとし過ぎているくらい、食べている。何なら、実家にいた頃より良さげな食生活だ。
【食べてる】
そうとだけ返して、スマホを伏せた。もちろん、『誰と』などとは書かない。
長田が「事故と怪我のないようにな」と言い残して出ていくと、教室は一気にざわめいた。
いよいよ、夏休み開始である。
椅子を引く音と、机の中身を鞄に詰め込む音。誰かが「カラオケ行く奴ー」と叫び、別の誰かが「部活だよ」と返していた。
麻貴が課題の冊子を鞄の底に押し込み直していると、前の席の隼太が椅子ごと振り返ってきた。
「よお、麻貴! あの話、考えたか?」
「あの話?」
目的語がなさすぎる。
何の話かさっぱりわからなかった。
「ほら、バイトだよ、バイト」
「あー……」
そこで、ファミレスのバイトに誘われていたことを思い出す。
悪くない話だとは思っていたのだが、汐織と付き合ってからの色々で、すっかりと頭から消えていた。
「悪い、検討中のまま止まってた」
「なんじゃそら。じゃあ、今日あのファミレス行こうぜ。まだ募集出てたから、応募ついでに昼飯も食っちまおう」
「お前もまだ応募してないのかよ」
「まあ、俺だけ行くのも悪いかなって」
隼太はそう言って、語尾を濁した。
こういう言い方をする時のこいつは、大概裏があるものだ。
麻貴は訊いた。
「……本音は?」
「一緒に行けば恥ずかしくない」
「そんなこったろーと思ったよ……」
机に肘を突いたまま、がくっと崩れ落ちる。
案の定だ。こいつが自分の益に先に飛びつかないわけがない。
そんなことを話していると、沙子がこちらの会話を聞きつけて、近づいてきた。もう鞄を肩にかけていて、下敷きで首元を扇いでいる。
「ファミレス行くの? じゃあ、あたしも行こうかな。冷房利いてるとこ行きたい」
沙子の後ろには、汐織がいた。
通学鞄を両手で前に持って、麻貴のほうを窺っている。一応、彼女にも訊いてみた。
「汐織はどうする?」
「麻貴くんも行くの?」
「まあ、そのつもり」
ちらりとふたりを見て、頷く。
このふたりが行くならむしろ、汐織がいないと邪魔になってしまう気がしてならない。……などと言おうものなら、きっと沙子にまた鳩尾を殴られるので、絶対に言えないけれど。
麻貴の視線で汐織も察したのか、困ったように笑った。
「じゃあ、私も行こっかな」
「あのファミレス、行ったことある?」
「ううん。気にはなってたんだけどね」
答えながら、汐織は少し困ったように笑った。
通学路から毎日見える、海沿いのファミレス。帰りにこのあたりで時間を潰していたのなら、絶好の場所ではあると思うのだが──気になっていながら入らなかった理由は、訊かなくても見当がついた。飯の味がしなくなっていた頃の彼女に、ガラス張りの明るい店は縁のない場所だったのだ。
麻貴はそこには触れず、鞄を肩にかけた。
「じゃあ、ちょうどいいな」
四人で昇降口へ下りると、蝉が待ち構えていた。
空は昨日と同じ快晴で、校門の先には八ヶ浜の駅前が白く光っている。
普段は駅に乗るが、今日は駅を通り過ぎて、海岸沿いの道へ。
ファミレスは駅の向こうの国道の、八ヶ浜と羽瀬ヶ崎のちょうど真ん中あたりにある。隼太が先頭に立ち、沙子がその横に並んだ。
麻貴たちは、少し後ろをついていった。
「なんだか、こういうのも楽しいよね」
汐織は麻貴の耳に顔を寄せると、そう言った。
言われてみれば、確かに。如何にも高校生らしい感じだ。
(夏休み、みんなでどこか行くのも悪くないよな)
汐織と遊ぶことばかり考えていたが、せっかく四人で仲良くなれたのだ。
みんなで遊ぶ予定を入れる相談も、このあとしてみよう。
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