第80話 同じ雨の下で
学期末の教室ほど、ゆるんだ場所もない。
授業は午前だけ。あとは大掃除と、返ってきた成績の見せ合いと、夏休みの予定の探り合い。あれだけ騒がれた麻貴と汐織の件も、一週間も経てばすっかり日常の風景になって、「一緒に帰ろ」に振り向く者はもういなかった。
昇降口で、隼太が靴を突っかけながら空を仰いだ。
「天気予報、午後から雷雨だってよ。早めに帰れよなー」
「おう。お前もなー」
ひらひらと手を振って、隼太は沙子と連れ立って帰っていく。あのふたりが最近も一緒に帰っているという事実には、条約上、触れないでおいた。
麻貴は、隣の汐織に向き直る。
「……だそうだ」
「うん。折り畳み傘、ちゃんと持ってきてるよ」
鞄の口を開けて、水色の折り畳み傘をちらりと覗かせてみせる。さすが優等生。準備万端だ。
「なら大丈夫か」
「でも、この空だし……」
昇降口の先、海の上の空だけが、妙に暗かった。蝉の声はまだ全力なのに、風の匂いが一足先に湿り始めている。
雷雨、という言葉に、内心で身構えた。
汐織にとって、それがただの天気ではないことを、知っているからだ。
「まあ、急いだほうがよさそうだな」
「うん」
汐織の手を取って、昇降口を出た。
彼女の表情は、いつも通りだった。いつも通りに、見えた。
*
電車に乗って、羽瀬ヶ崎駅で降りるところまでは、よかった。
駅を出て、商店街を抜けた先。住宅街に入ったあたりで、ぽつ、と来た。
ぽつ、が、ぽつぽつ、になって、ざあ、に変わるまで、三十秒もなかった。
「うおおお! やば過ぎだろこれ!」
「きゃあっ!」
慌てて傘を開く間にも、雨脚は音を立てて濃くなっていく。汐織の水色の折り畳みは、鞄の奥で他の荷物に埋もれていて間に合わず、先に出せたのは麻貴のくたびれた一本だけだった。
その一本きりに、ふたりで押し込まれる形になる。
肩が触れる。というより、肩から二の腕まで、ほとんど密着だった。しかも、それだけくっついても、お互いの外側の肩は完全にはみ出している。横殴りの雨が、遠慮なくそこを打った。汐織の長い髪が、みるみるうちに濡れて頬に張り付いていく。
「これ……意味、ないかも」
「……悪い。俺はもう濡れていいから、お前ひとりで使えって」
「それだと麻貴くんが風邪引いちゃうよ」
傘の柄を押し付け合う攻防を数秒。それから汐織は、濡れた前髪の下で、ぱっと表情を切り替えた。
「ね。いっそ走っちゃおっか」
「本気で言ってんのか? びしょ濡れだぞ」
「もうびしょ濡れだもん。ここでふたりで縮こまってるより、ずっといいよ」
言われてみれば、その通りだった。どうせ濡れるなら、立ち止まって濡れるより、走って濡れたほうがいい。
傘を畳んで、手を繋いで、水しぶきを蹴散らして走った。
アスファルトを叩く雨音と、ふたりの足音と、なぜだか止まらない笑い声。遠くの空で、ごろ、と最初の低い音が鳴った。麻貴は走りながら隣を確かめたが、彼女は前だけを向いて、息を弾ませて笑っていた。気付いていないようだ。或いは、気付いていないふりが、上手になったのか。
アパートの外階段を駆け上がり、鍵を開けて、玄関に転がり込む。
ドアを閉めた途端、雨音が一枚遠くなった。
「はー……びしょびしょ」
「……だな」
顔を見合わせて、もう一度、笑った。
あの嵐の夜も、こうしてずぶ濡れでこの玄関に駆け込んだ。あの時は、笑うどころではなかったけれど。
いや、今も笑っている場合ではなかった。
玄関で雫を垂らす汐織のセーラーの夏服は、肩から背中までぐっしょりと濡れて、生地が肌に張り付いていた。白い布地の下に、うっすらと透けているものがある。
直視できなかった。
条件反射で顔を背け、洗面所からタオルを二枚引っ掴んできて、一枚を突き出す。
「ほら。拭けよ」
「ありがとう……あっ」
自分の状態に気付いたらしい。汐織がタオルで胸元を隠して、じわりと赤くなった。気まずい沈黙が一拍。外の雨だけが、やけに騒がしい。
麻貴は天井を仰いだまま、意を決して切り出した。
「その……着替え、あるだろ。クローゼットに」
「え?」
汐織がぱちりと瞬いて、それから、濡れた前髪の下でふわりと笑った。
「……覚えてたんだ」
「そりゃな。なんか『色々入っている』んだろ?」
「もう。麻貴くんのえっち」
「俺が言ったんじゃなくてお前が言ったんだからな!?」
くすくす笑いながら、汐織はクローゼットの隅から紙袋を取り出して、ユニットバスへ消えていった。あの雷の日の翌日に置いていった袋が、ようやく日の目を見た形である。
待っている間、特にやることがなかった。
とりあえず自分も部屋着に着替え、意味もなく麦茶をふたつ用意し、意味もなくローテーブルの前に正座した。ドア一枚向こうの衣擦れの気配から意識を引き剥がすのに、全精神力を使う。雨音が大きくて助かった。
(……それがあったなら、花火の日も泊まれたんじゃね?)
ふと浮かんだ思考を、慌てて頭から追い出す。言えるわけがなかった。あの夜、彼女がこの袋のことを覚えていたのかどうかも、触れないでおくのが平和というものだ。
もし、覚えていたのだとしたら──。
そこで、かちゃりとドアが開いた。
「おまたせ」
白いTシャツに、膝上のショートパンツ姿の恋人が、そこにいた。
タオルを首にかけて、濡れた髪をおろしたまま。見慣れた制服でも、よそいきのワンピースでもない、完全な部屋着である。
麻貴は、本日二度目の撃沈を喫した。
「……? どうしたの?」
「なんでもありません……」
小首を傾げる汐織を横目に、ふたり分の制服をハンガーにかけて、カーテンレールに並べて干す。セーラー服とワイシャツが、隣同士で雫を落としている。その絵面がどうにも同棲じみていて、三度目の撃沈を静かに喫したのだった。
そんなこんながありつつも、麦茶で一服して、人心地がついた頃。
窓の外が、白く瞬いた。
遅れて、低い音が腹に届く。さっきの遠雷より、明らかに近い。
気付けば、身体が動いていた。
立ち上がって、カーテンの端を掴む。リビングの大窓を端まできっちり。次は台所の小窓のブラインド。テレビのリモコンはどこだ。音と光を早く塞いで、それから彼女の隣に──。
「麻貴くん」
伸ばした手を、細い指が、そっと止めた。
振り向くと、汐織はローテーブルの前に、静かに座ったままだった。
怯えも、青ざめも、あの夜の気配は、どこにもない。ただ、麻貴の手を両手で包んで、少し困ったように、笑っている。
「ありがとう。でも──」
彼女は麻貴の手を引いて、自分の隣へ座らせた。
「今日は、大丈夫だから」
窓の外の白い光を眺めたまま、静かに言った。
「怖くないって言ったら、嘘になるけどね」
包まれた手に、きゅ、と力がこもる。その指先が、ほんの少しだけ震えていた。
大丈夫、は強がりではないのだろう。でも、平気、とも違う。怖さはまだそこにあって、それでも隣にいれば、雷はただの雷でいられる。きっと、そういう意味だ。
だったら、こちらのやることも決まってくる。
「汐織」
名前を呼んで、両手を少しだけ広げてやる。
汐織は瞬きをひとつしてから、くしゃっと破顔した。ためらいもなく、そっと胸の中に収まってくる。濡れた髪から、雨とシャンプーの混ざった匂いがした。
「えへへ。あったかい」
「暑いの間違いだろ?」
「そんなことないよ」
腕の中で、汐織が目を閉じる。
外がまた光って、腹に響く音が続いた。腕の中の身体が、ぴくりと小さく跳ねる。跳ねたぶんだけ、抱く腕に力を足した。
「……ほら。全然怖くなくなっちゃった」
「ほんとかよ」
「ほんと」
汐織が、胸の中から、じっとこちらを見上げてきた。
濡れた睫毛の下の瞳が、なにを求めているのかは、言葉がなくてもわかる。
すっと目を閉じて、顎が上がった。
麻貴も目を閉じて、唇を寄せる。
窓の外、雨と光。
ふたりで、ただ、雷が通り過ぎていくのを聞いていた。
テレビは、結局つけなかった。
*
夕立は、三十分ほどで通り過ぎた。
その三十分、ふたりはずっとそのままでいた。雷が鳴れば腕に力を込めて、静かになれば額を寄せて、時々、思い出したように唇を触れ合わせて。
雲の切れ間から日が差し込むと、濡れた屋根という屋根が一斉に光った。蝉が、何事もなかったような顔で鳴き直す。
「あーあ。お昼、すっかり遅くなっちゃった」
「素麺でいいんじゃないか?」
「そうしよっか。……なんだか今日は、色々あったね」
腕から抜け出した汐織が、髪を耳にかけながら、恥ずかしそうに笑った。
その笑顔がいつにも増して、可愛くて。その色々が訊きたくて、ついすっとぼけてしまう。
「ん? 何があったっけ?」
「もうっ。わかってるくせに」
汐織は少し拗ねたような顔をしたかと思えば、すぐにふっと口元を綻ばせた。
それからふたりで台所に並んで、昼食の準備。
素麺を茹でて、残り物の揚げ浸しを添えるだけの、遅すぎる昼飯だ。薬味のミョウガを刻む汐織の口から、いつもの鼻歌がこぼれている。雷の余韻は、もうどこにも残っていなかった。
湯を沸かす音の向こうで、麻貴は何となしにカーテンレールの制服を眺める。
あの夜、この部屋は、嵐から逃げ込む避難所だった。
今日は、雷の音を隣で聞いていられる場所になっている。
同じ雨に降られて、同じ部屋に駆け込んで、それなのに、なにもかもが違っていた。この部屋は今も、避難所からもっと別のなにかへ、少しずつ変わり続けているのだろう。
窓辺では、二着の制服が、並んで雫を落としている。
その向こうの水たまりが、夕方の日差しを浴びて、一面にきらきらと光っていた。




