第79話 まだ開いていない扉
放課後は、いつも通りにやってきた。
帰りのホームルームが終わって、鞄を提げた汐織と教室を出る。廊下ですれ違う視線も、昇降口までの並木道も、繋いだ手も、もう三日目ともなれば板についてきた。不可侵条約発効から半日、隼太と沙子が妙によそよそしいのが唯一の変化だ。
そうして辿り着いた、麻貴の部屋。
台所には、油と生姜の匂いが立ちこめていた。
今夜の献立は生姜焼き。ついでに、作り置きの常備菜をいくつか仕込むのだと、汐織はエプロンの紐をきゅっと結び直して、朝から張り切っていた。麻貴の仕事はキャベツの千切りと、きんぴら用のごぼうのささがきである。ささがきは、最近ようやく様になってきた。
「沙子、帰り際もちょっと変だったの」
豚肉に片栗粉をはたきながら、汐織が思い出し笑いを漏らした。
「マジか」
「うん。『じゃあね』って言っただけなのに、『ち、違うから!何もないから!』って」
両手を胸の前で構えて、慌てた沙子の物真似までしてくれる。いつも涼しい顔の王子がその有様とは、想像するだけで飯が進みそうだった。
「訊いてねーのにな」
「訊いてないのにね」
顔を見合わせて、ふたりで笑った。
あの王子が自分から墓穴を掘るとは、よほど動揺が尾を引いているようだ。かといって、こちらから掘り返すことは条約上できない。もどかしいような、痛快なような。
「八木くんの方はどうだった?」
「五時間目、ずっと窓の外眺めてた」
「……どうして?」
「知らん。条約があるから訊けん」
まな板の音と、フライパンの湯気。昼休みの不可侵条約の顛末が、他愛のない笑い話になって、ゆるゆると天井へ昇っていった。
条約がある以上、追及はできない。できないが、明日の昼休みが少し楽しみになる程度の土産は、しっかり受け取った気分だった。
肉の焼ける音。味見の小皿。隣に立つ距離。
この時間が、麻貴はたぶん、一日でいちばん好きだった。
ローテーブルに皿を並べて、手を合わせる。
生姜焼きは文句なしの出来、千切りキャベツは自己採点で及第点。太さが揃ってきたね、と汐織が褒めてくれる。師匠の採点は、今日も甘かった。
テレビでは、いつものバラエティが流れている。芸人の絶叫に汐織がくすくす笑って、麻貴が白飯をおかわりして。何度も繰り返してきた、いつも通りの夜だった。
しかし、そんな夜に、少しの変化が訪れる。
食事の途中、ローテーブルの隅で汐織のスマホが短く震えた。
画面をちらりと確かめた彼女の箸が、一拍だけ止まる。
「……ごめんね。ちょっとだけ」
「ああ」
手早く返信を打って、汐織はスマホを伏せた。
誰から、とは訊かなかった。訊かないのが、ふたりのルールだ。ただ、空になりかけていた彼女のグラスに、麦茶を注ぎ足しておいた。
「ありがとう」
汐織は小さく笑って、食事に戻った。
戻ったが、その後の相槌が心持ち薄い。テレビに向ける笑い声も、半拍だけ遅れていた。
気付かないふりをして、麻貴は生姜焼きを口に運んだ。
訊かない。でも、気付いてはいた。そういう待ち方を、この一ヶ月半で覚えた。
夕飯を平らげて、洗い物をふたりで済ませて。
食後の麦茶で一服している時だった。
「あのね、麻貴くん」
グラスの中の氷を眺めたまま、汐織が口を開いた。
「麻貴くんと付き合ってること……お父さんに、言おうかなって。ちょっと前から、迷ってて」
麻貴は、湯呑みを静かに置いた。
さっきのメッセージはお父さんからだったの、と汐織は付け足した。今日も遅くなるのか、という短い文面だったらしい。それだけの、事務連絡。でも、その一通が、ずっと胸の隅にあったものを浮かび上がらせたようだ。
「学校では、もう隠すのやめたでしょ? なのに、親にだけ隠してるのって、なんだか違う気がして。でも……」
その先が、なかなか続かなかった。
麻貴は急かさず、氷が鳴るのを聞きながら待った。
汐織の家の事情は、あの嵐の夜に聞いている。小さい頃にお母さんを亡くして、お父さんとふたり、台所を預かってきたこと。去年、お父さんが再婚して、新しいお母さんは優しい人で、もう赤ちゃんを身篭っていること。
「言いたい気持ちは、あるんだよ?」
そう前置いて、汐織はぽつりぽつりと続けた。
「大事なことだから、ちゃんとふたりにも話しておきたいって。でも……今、ふたりはこれからのことで手一杯だし。お父さんも吉奈さんも、すごく大変な時期だと思うの。そこに、私の話で波風立てるのは……どうなのかなって、思っちゃう」
グラスの縁を、指先がなぞる。
「それに……どう切り出せばいいのかも、わからないし。ふたりに私の話をしたことって、これまでにないんだよね」
最後のひとことだけ、声が少し小さくなった。
波風を立てたくない、の一言に、彼女の家での立ち方が全部詰まっている気がした。優しい人だからこそ、言い出しにくい。邪魔をしたくないからこそ、自分のことを後回しにする。ずっとそうやって、家では暮らしてきたのだろう。
あの嵐の夜、彼女はこの話を泣きながらでしか口にできなかった。今日は、普通に話せている。それがどれだけの変化なのか、麻貴はわかっているつもりだ。
返す言葉は、選ばなければならなかった。
でも、都合のいい答えなんてありはしない。
言ったほうがいい、と背中を押すのは簡単だ。無理しなくていい、と引き留めるのも。でも、どちらも正しい答えではないと思えた。彼女の家のことは、彼女が誰よりも長く、誰よりも深く考え続けてきたことだ。外野が麦茶一杯の間に出せる正解なんて、あるはずがない。
それに、彼女は答えを求めているわけでもないと思うのだ。
言おうかな、と口に出すこと。それ自体が、今夜の彼女には必要だったのだと思う。迷いを見せられる場所がある、ということが。
だから、伝えるのはふたつだけにした。
「焦って決めることじゃないだろ。学校のことだって、お前のペースでちゃんと辿り着いたんだ。家のことは、もっとゆっくりでいいんじゃないか?」
「……うん」
「それとな」
麻貴は麦茶をひと口飲んで、覚悟を決めた。
「言うって決めたら、その日は俺も行くからさ。──娘さんとお付き合いさせてもらってますって頭下げるのは、彼氏の仕事だろ?」
「──っ」
汐織が、目を丸くした。
瞬きをふたつ。それから、泣き出す一歩手前みたいな顔で、ふにゃりと笑った。
「……なあに、それ。プロポーズみたい」
「おい、こっちは相当の覚悟で言ってんだぞ」
「うん。知ってる」
汐織はグラスを両手で包んで、しばらく、その中の氷を眺めていた。
それから、噛みしめるみたいに、小さくもう一度。
「麻貴くんは、そういう人だもんね」
目の縁がうっすら光っていたけれど、涙にはならなかった。
ならなくて、いい。この話は、泣く話じゃなくて、いつか笑って済ませる話にするべきなのだ。ふたりで。
「……ありがとう。もう少しだけ、考えてみるね」
「おう。何年でもどうぞ。出来れば、定年退職する前までにな」
「そんなに悩まないよ」
笑って、汐織は空いたグラスを流しへ運んだ。話は、そこまでだった。
それから彼女は、わざとらしいくらい明るい声で「あ、そういえば」と話題を変えた。
「週末、ちょっと大きいスーパーまで行かない? 麺つゆ、そろそろ切れちゃいそうなの」
「おー、いいぞ。ついでに素麺も買い足すか」
冷蔵庫の中身を思い浮かべる顔で、汐織が指を折り始める。買い出しリストが、頭の中でもう組み上がっていくらしい。
「コストコとか、行ってみたいなぁ」
「あー。なんかめっちゃ広いらしいな」
「あと、安いんだって。この前テレビで見てびっくりしちゃった」
そんなくだらない、なんともない話あ続いていく。
無理に引き戻したりはしなかった。
迷いは、迷いのまま仕舞っておいていい。そう彼女自身が思えるようになっていたなら、大した進歩だ。
ただ、タッパーにきんぴらを詰めながら口ずさむ鼻歌が、いつもの調子に戻っていた。
それだけで、十分だ。
*
日が落ちてから、羽瀬ヶ崎駅まで送った。
夜の商店街は今日も人通りがまばらで、下りたシャッターの前を、繋いだ手のままゆっくり通り過ぎていく。昼間の熱を残したアスファルトを、生ぬるい風が撫でていった。
駅の改札で、汐織が立ち止まる。
「さっきの、すごく嬉しかった」
「さっきのって?」
「えっと……『彼氏の仕事』のやつ、です」
「お、おう」
途端に、恥ずかしくなった。なんてことを言ったんだ、自分は。改めて他人の口から聞くと、破壊力が倍になって返ってくる。
彼女も同じらしく、頬を赤らめていた。
「……その話はもう仕舞いな」
「はぁい」
悪戯をした子供みたいな返事をして、汐織がくすくす笑う。
改札の中に、人影はなかった。商店街の側にも、誰もいない。
どちらからともなくそれを確かめて。彼女が何かを求めるように、名を呼んだ。
「……麻貴くん」
それに応えるようにゆっくりと顔を寄せて、キスをひとつ。
今日はなんとなく一回で済ませたくなくて、それを三回続けた。
唇を離すと、汐織は嬉しそうにはにかんでいた。
「また明日ね」
「おう。着いたらLIMEな」
「うん。おやすみなさい」
小さく手を振って、彼女は改札を抜けていった。階段の途中で一度だけ振り返るのも、いつも通り。
やがてホームに電車が滑り込んだ。走り出して、音が遠ざかっていく。
麻貴は、夜道をひとり引き返した。
歩きながら、さっきの自分の台詞を反芻して、ひとりで赤面する。頭を下げるのは彼氏の仕事。よく言えたものだ。実際にその日が来たら、緊張で膝が笑うに決まっているのに。
でも、撤回する気は、これっぽっちもなかった。
彼女の家には、まだ開いていない扉が一枚ある。それを開ける日を決めるのは彼女自身だ。それを急かすつもりはないし、その資格もない。
ただ、開ける時にその隣へ立つ準備だけは、今夜、もう済ませてしまった。
夏休みまで、あと少し。
夜風が、昼間より少しだけ湿っていた。




