第78話 そっちこそ、どうなの?
火曜日の朝の教室は、昨日よりずいぶん平熱に近かった。
「おはよ、麻貴くん」
「おう。……おはよう」
教室のど真ん中で交わす、ただの挨拶。昨日までは考えられなかったやり取りに、周囲が一拍だけ聞き耳を立てて、それからすぐに興味を失っていく。
噂というのは、公認された途端に鮮度が落ちるらしい。ありがたい話だった。
席に着いてスマホを確かめると、昨夜のトーク画面が残っている。てらてらと艶よく仕上がった麻婆茄子の写真と、【今日の麻婆茄子、百点でした】の吹き出し。作ったのは九割方汐織で、麻貴の仕事はナスを切ったのと味見くらいなのだが、彼女の採点は毎回甘い。
その写真を眺めてにやけかけて、慌てて画面を伏せた。教室でやることではない。
午前の授業は、驚くほど普通に過ぎていった。当てられて、板書を写して、隣の席の欠伸が移って。騒動の前と寸分違わぬ時間割に、日常というやつのしぶとさを思う。
異変が起きたのは、昼休みだった。
いつもの空き教室。いつもの四人。机をくっつけて、それぞれの昼飯を広げる。
麻貴も、布に包まれた弁当箱を取り出した。今朝、昇降口で汐織から受け取った、いつもの弁当だ。彼女が作ってくれるようになってから、もうずいぶん経つ。ふたりの日常の、いちばん古い部類に入る。
蓋を開けて。
麻貴は、固まった。
卵焼きが、ハートの形をしていた。
黄色いハートが、ご飯の隣に三つ、行儀よく並んでいる。プチトマトの配置も、ブロッコリーの角度も、心なしか昨日までより華やいでいた。全体的に、彩度が上がっている。
そっと蓋を閉じようとした。が、遅かった。
「なあ箕島くんよぉ。その卵焼き、どういう形に見える?」
斜め向かいから、隼太がぬっと覗き込んでくる。口の端が、もう限界まで持ち上がっていた。
「……言うな」
「ハートだよなあ? どっからどう見てもハートだよなあ?」
「言うなって言ってんだろ!」
弁当箱を胸に引き寄せて庇うが、後の祭りだった。沙子まで身を乗り出して、まじまじと中身を検分してくる。
「へえ。可愛いね」
「だろ? いや俺が作ったんじゃないけど」
当の汐織はといえば、自分の弁当を広げながら、きょとんとしていた。
「あ、それね。新しい型を買ったの。可愛かったから……だめだった?」
心底不思議そうに、小首を傾げている。
悪気も、照れも、企みもない。ただ可愛い型を見つけたから使った。それだけらしい。
だめなわけがない。だめなわけがないから、困っているのだ。無自覚というのは、どんな攻撃よりもたちが悪かった。
「だめじゃ、ない、けど……」
「ふふっ。ならよかった」
にこにこと箸を進める彼女の隣で、麻貴はハートの卵焼きをひとつ、無言で口に運んだ。いつも通りの、出汁の効いた味がした。味は、いつも通りなのだ。形だけが、心臓に悪い。
そこからは、いつもの流れだった。すなわち、集中砲火である。
沙子が楽しそうに訊いてきた。
「昨日は麻婆茄子だったんだって? 汐織から聞いたよ」
「う……」
しかも今日は、身内に内通者がいるらしい。訊かれてもいないのに、朝のうちに嬉しそうに報告したようだ。隠す気が微塵もない彼女に、悪気もまた微塵もないのが厄介だった。
「写真あるんでしょ? 見せてよ」
「あ、うん。ちょっと待ってね」
「見せなくていいから!」
ポケットからスマホを取り出しかけた汐織を、慌てて制止する。あの写真の下には【今日の麻婆茄子、百点でした】が付いているのだ。見せたが最後、向こう一週間はいじられ続ける。
沙子がつまらなそうに口を尖らせた。
「別にいいじゃん。減るもんじゃなし」
「減るんだよ、俺の寿命が!」
その攻防を眺めていた隼太が、割り箸の先をびしっとこちらへ突き付けてくる。
「そこからハートの弁当ときたか。おい、聞いてるか箕島。お前らもう籍入れろ」
「気が早いんだよ!」
「式には呼んでよね。あたし、汐織側の親族席がいい」
沙子まで、当然の顔で便乗する。指を折って、席次まで考え始めている。
「親族ですらないだろ!」
隼太と沙子の波状攻撃に、箸を持つ暇もない。
「け、結婚はまだ早いよ……だってまだ、高校生だし」
真っ赤になりながら、汐織がおずおずと参戦してくる。援護のつもりらしい。
だが、その一言に、場の全員がぴたりと止まった。
「「「まだ!?」」」
「──ッ!? い、今のはなし! なんでもないから!」
自分の発言に気付いて、汐織が両手をぶんぶんと振り回す。援護どころか、特大の燃料投下だった。この子は今日、味方のようで味方ではない。
げらげらと笑う隼太と、肩を震わせる沙子。
防戦一方の麻貴は、麦茶で喉を湿らせながら、ふと思った。
……そういえば、だ。
こいつらは、いつも訊く側だ。報告の日も、公認の日も、今日も。にやにやと外野から眺めて、好き放題に撃ってきやがる。
訊かれる側に回ったことが、ただの一度も、ないのだ。
攻められ続けた二日間で、麻貴の腹は据わった。やられっぱなしで終わる道理は、どこにもない。
「大体な」
麻貴は箸を置いて、向かいのふたりを順に見据えた。
「人のことばっか訊きやがって。そういうお前らはどうなんだよ」
「はあ? 俺ら?」
隼太が、素で意外そうに自分と沙子を指差した。それから、鼻で笑い飛ばそうとする。
「俺らは別に、そういうんじゃ──」
「そういえば、私も気になってたの」
その笑いを、涼やかな声が遮った。
汐織である。
ペットボトルを、ことりと机に置いて。まったく屈託のない、それこそ天気の話でもするような顔で、彼女は訊いた。
「だって沙子。借り物競争の時、真っ先に八木くんのところに行ったでしょ? どうして八木くんだったの?」
空き教室が、しんと静まり返った。
開いた窓から、蝉の声だけが遠慮なく入ってくる。
借り物競争。お題は『最も残念な異性』。会場中が大爆笑したあの一件を、麻貴も鮮明に覚えている。くじを引いた沙子は、迷う素振りすら見せずに、まっすぐ隼太のもとへ走ったのだ。
あの日は笑い話で済んでいた。
だが、こうして改めて、他意ゼロの顔で問われると。即決だった、という事実だけが、机の真ん中にぽんと置かれることになる。
「…………」
「…………」
いつも真っ先に軽口を返すふたりが、揃って黙った。
珍しいものを見た。
隣で汐織が、そっと麻貴の耳へ口を寄せてくる。囁き声の作戦会議だ。
「(ね、麻貴くん。これって、もしかして……)」
「(……しっ。今いいところだから)」
ふたりして、固唾を呑んで続きを待つ。攻守が入れ替わった観客席は、こんなに居心地がいいものだったのか。昨日までさんざん座らされていた被告席との、この違いである。
先に口を開いたのは、沙子だった。
「あ、あれは……一番近くにいたのが、隼太だっただけで」
一拍、遅かった。
いつもの涼しい即答とは、切れ味がまったくの別物だった。しかも早口だった。よく見れば、耳の縁が、ほんのりと色づいている。
「だ、だよなあ! 俺ほど手近で残念な男もいねーもんなあ!」
「そうそう! そ、それだけ。だって、『残念な男』に挙げられて喜ぶのなんて、隼太くらいだし」
「そーそー、それだけそれだけ! ……って、俺別に喜んでないけど!?」
息がぴったりだった。
否定の息が、あまりにもぴったりだ。
しかも隼太の声は上擦っているし、沙子は視線をこちらに合わせない。いつもは間髪入れずに飛んでくる軽口の応酬が、今日だけは一往復ずつ遅れていた。
麻貴は、隣の汐織と顔を見合わせた。
追撃するべきか。
ここで畳みかければ、二日分の借りをまとめて返せるかもしれない。だが、下手に踏み込めば、明日から倍返しの集中砲火が待っているのも確実だった。あの必殺鳩尾砕きが、こちらに向く可能性すらある。
攻めきれない。かといって、引くのも惜しかった。
四人の間で、視線だけが、じりじりと行き交う。蝉の声が、やけに長かった。
膠着を破ったのは、隼太の咳払いだ。
「……よし。この話はお互い禁止な。不可侵条約だ」
「賛成」
沙子の挙手が、光の速さだった。
「異議なし」
麻貴も乗る。正直、これ以上いじられるのも、いじった報復を受けるのも御免だった。ここが引き際だろう。
最後に、汐織がにっこりと締めた。
「私もそれでいいよ? その代わり、私たちのことも不可侵にしてね」
汐織が最後に「ふふっ」と小さく笑いを付け足す。その小さな笑いが、条約に不穏な余韻を残していた。
にこにこの裏に、しっかり実利を確保している。この子、今日一番強かったのでは。
かくして、歴史的な条約は成立した。
成立して、三秒後。
「でもよ、ハートの卵焼きだけは記録に残すべきだと思うんだよな。歴史的資料として」
隼太がスマホを構えた。
沙子の手刀が脳天に落ち、汐織の「八木くんっ」が同時に飛んだ。ダブル制裁である。轟沈した隼太が机に突っ伏したところで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
結局、条約が守られたのは三秒だった。まあ、こんなものだろう。
教室へ戻る廊下は、いつも通りに騒がしかった。
前を歩く隼太と沙子は、もう普段の軽口に戻っている。歩く距離も、突っ込みの応酬も、昨日までと何ひとつ変わらなかった。
変わらない、はずなのだが。
その「普段通り」が、今日はどうにも、意識して作られたものに映った。半歩の距離を、わざわざ測って歩いているような。
麻貴は、隣の汐織とこっそり目配せを交わした。彼女もどうやら、同じことを考えているらしい。口元が、悪戯を思いついた子どもの形になっている。
(……あのふたり、意外と、もしかして?)
浮かびかけた続きを、麻貴は途中で打ち切った。
やめておこう。不可侵条約は、結んだばかりだ。




