第77話 一緒に帰ろ、ふたたび
いつもの空き教室に辿り着いて、ようやく人心地がついた。
机をくっつけて、弁当を広げる。開け放した窓から、蝉の声と生ぬるい風が入ってきた。この面子でこの場所、というだけで、肩の力が勝手に抜けていく。
「いやー。言い切ったねー、汐織」
「即答だったよなあ。俺、ちょっと感動したわ」
講評会が始まった。
沙子と隼太のにやにやを一身に受けて、汐織はお茶をひと口飲んでから、なんでもないことのように答えた。
「うん。だって、隠すことじゃないし」
「おー」
「隠すのは、もうやめたの。そう、決めたから。ね?」
彼女はこちらに笑顔を向けて、小首を傾げた。
ね、と同意を求められても困るのだが。でも、それはそれで嬉しい悲鳴だった。
体育祭のあの日。全校の前で麻貴の手を取った日。あの時にはもう、彼女の中で決まっていたのだろう。だから今日、迷いのひとつもなかった。麻貴が事前の打ち合わせだの口裏だのと空転していた横で、彼女はとっくに腹を括っていたのだ。敵わないな、と思う。
そして、そこまで言ってから、じわじわと彼女の耳が赤くなっていった。宣言と照れの時差が、この子は長い。
「かーっ、ごちそうさん。ところでさあ」
隼太が箸を止めて、こちらの弁当箱を覗き込んできた。
「……ん? 箕島くんのその卵焼き、汐織のと同じ?」
気付いたのは沙子だった。
二つの弁当箱の隅に、同じ焼き色の卵焼きが、仲良く収まっている。昨日の帰り際、「明日のお弁当に入れるね」とタッパーで彼女が持って帰ったやつだった。
「あー……昨日の、残りで」
「昨日!? 日曜も一緒だったのかよ!?」
隼太が箸を持ったまま、がたっと身を乗り出してきた。しまった、と思った時にはもう遅い。余計な情報を、自分から供出してしまった。
沙子は麦茶を口に運びながら、呆れ半分、面白がり半分でこちらとお隣とを見比べる。
「あんたたち、進みが早いんだか遅いんだか」
「うるせえな、いいだろ別に!」
「で? 日曜は何してたんだよ、日曜は。デートか? デートだったのか!?」
机に肘をついて、ずいっと顔まで寄せてくる。完全に取り調べの距離だった。
「ただ飯作って、勉強してただけだが」
嘘は言っていない。事実をありのまま述べただけだ。
なのに、隼太は数秒固まってから、心底しみじみとした声で言った。
「……お前それ、もう新婚じゃねーか」
「ばっ、」
反論しようとして、言葉が出てこなかった。買い出しをして、並んで飯を作って、卓袱台で勉強をして。言われてみれば、返す材料がひとつもない。
隣で汐織が、湯気の出そうな顔のまま、こくこくと頷いていた。頷くな。認めるな。
そこで、沙子の手刀が、すぱんと隼太の脳天に落ちた。様式美である。
藪蛇だった。
汐織はといえば、隣で耳まで赤くしたまま、無言で卵焼きを口に運んでいる。誤魔化し方が下手にも程があった。
昼休みの残り時間は、あっという間に溶けていく。
*
放課後。
帰り支度をしていると、教室の空気が、そわ、と動いた。
鞄を提げた汐織が、まっすぐこちらの席へ歩いてくる。教室中の耳が、また一斉にこちらを向くのがわかった。
彼女は麻貴の前で立ち止まると、ほんの少しだけ首を傾げて、言った。
「麻貴くん。一緒に、帰ろ?」
あの日と、まったく同じ台詞だった。
ただし今日は、教室が凍りついたりはしない。「はいはい」「ごちそうさま」という空気があちこちから漂い、女子の誰かが「いってらっしゃーい」とのんきに手を振ってきた。男子側からは、力尽きた呻きがひとつふたつ聞こえただけだ。
「……おう」
立ち上がって、隣に並ぶ。
あの日、教室を黙らせた魔法の言葉は、今日はただの、放課後の挨拶になっていた。
それが、たまらなかった。
昇降口で靴を履き替えて、校門までの並木道に出る。西に傾き始めた日差しが、まだじりじりと暑い。下校の生徒はそこかしこにいて、すれ違いざまの注目も、相変わらずついてした。
でも、ふたりとも、もう顔は伏せない。
隣を歩く汐織の指先が、こつん、と手の甲に触れた。
それを、どちらからともなく確かめ合って──手を、繋いだ。
電車の中では、顔を伏せて隠すように繋いだ手だった。それを今は、夏の日差しの下で、誰に見られても構わずに繋いでいる。
「……なんか、変な感じだね」
繋いだ手を軽く揺らしながら、汐織が呟いた。
「ん?」
「隠してた時間が長かったからかな。堂々と歩いてるのが、まだ慣れなくて」
「そのうち慣れるだろ。……嫌でも」
「うん。嫌じゃないから、きっとすぐに慣れちゃう」
悪戯っぽく笑って、指先にきゅっと力を込めきた。慣れる気満々らしい。
言ってから、汐織はふと思い出したように付け足した。
「今日ね、いっぱい訊かれたの。いつからとか、どっちからとか」
「あー……こっちもだ。なんて答えた?」
「内緒、って」
人差し指を唇の前に立てて、澄まし顔をしてみせる。教室であの女子たちに向けたのだろう仕草を、そのまま再現しているらしかった。
「賢明だな」
「だって、全部話したら長いんだもん。それに……誰にも話したくないし」
「俺も同じだよ」
確かに、話すと長くなるだろう。台所の契約から始めて、雨の日も、体育祭も、花火も。順を追って話したら、時間がいくらあっても足りない。
でも、それより──あの始まりだけは、誰にも話すつもりがなかった。あれは、ふたりだけのものだ。
汐織が表情をぱっと明るくして、訊いた、
「ね、麻貴くん。今日も寄ってっていい?」
「おう。麻婆茄子の材料、まだ残ってたよな」
「あ、覚えてたんだ?」
校門を抜けると、蝉の声が一段濃くなった。
繋いだ手のひらは、少し汗ばんでいて、それでもどちらも離そうとはしなかった。
夏休みまで、あと半月弱。
隠しながら繋がっていた放課後は、今日から、ただ堂々と繋いでいられる放課後になった。




