第76話 公認
嫌な予感というものは、当たる時に限ってよく当たる。
一時間目の古典。教科書を目で追いながらも、麻貴は教室の空気がじわじわと変質していくのを、肌で感じ取っていた。
朝の時点では「体育祭のあのふたり、結局どうなったの」という、いわば続報待ちの空気だった。それが、休み時間を挟むたびに、質が変わっていく。廊下から誰かが覗きに来たり、窓際の女子たちが、スマホを囲んでひそひそやっていたり。ちらちらと飛んでくるものに、確信の色が混ざり始めていた。
二時間目が終わった直後、隼太が椅子ごとこちらへ滑り寄ってきた。
「ご注進ご注進。花火の件、もう他のクラスまで回ってんぞ」
「……マジか」
声を潜めて頭を抱える麻貴の前で、隼太はにやにやと指を一本立てた。廊下まで聞き込みに行っていたらしい。仕事が早いにも程があった。
「目撃談によると、お前ら腕組んでたらしいな」
「手ぇ繋いでただけだが!?」
「三組バージョンだとお姫様抱っこだったぜ」
隼太が芝居がかった仕草で、お姫様を抱える腕の形を作ってみせる。
「どこの世界線の俺だよ!」
思わず机を叩きそうになった。
してない。断じてしてない。浴衣の彼女をお姫様抱っこして花火会場を歩く度胸があったら、告白までにこんなに時間もかからはかったはずだ。
しかし噂とは恐ろしいもので、伝言ゲームを三回も経由すれば、手繋ぎが腕組みに、腕組みが抱っこに進化するらしい。この調子だと放課後には結婚していることになっていそうだ。
三時間目のあとには「浴衣はペアルックだった」説が、四時間目の前には「帰りに指輪を見ていた」説が追加された。どこの誰だ、供給しているのは。
訂正して回りたいのは山々だが、訂正すれば、土台の部分を認めることになる。認めること自体はもう構わないのだが、こちらから言って回るのも、それはそれで違う気がした。
「出どころは知らねーけど、見られてたんだなあ、お前ら」
「他人事だと思って楽しみやがって……」
「実際他人事だしな!」
実に良い笑顔だった。友情とはいったい。
頭を抱える麻貴の視界の端で、汐織の席のほうも騒がしくなり始めていた。まだ誰も直接は訊きに行かない。行かないが、包囲の輪が、一時間ごとに半歩ずつ狭まっていた。
この均衡が破れるのは、時間の問題に思えた。
そして、その均衡は四時間目の終わりに破れることとなる。
昼休み。弁当を持って、いつもの空き教室へ移動しようと腰を浮かせた、その矢先だった。
「ねえねえ、篠宮さん」
クラスの女子が数人、汐織の席をふわりと囲んだのだ。
あの体育祭の日の、男子どもの殺気立った包囲とはまったく違って、刺々しさはなかった。敵意もない。ただ、好奇心だけが全開だった。目がきらきらしている。
「あのね、変なこと訊くんだけど。土曜の花火、行ってた?」
「え? ……うん、行ったよ」
汐織は瞬きをひとつして、素直に頷いた。
その途端、女子たちの輪が、きゅっと一段縮まる。
「や、やっぱり! 浴衣、見たって子がいて」
「白いやつでしょ? すっごく似合ってたって」
「あ、ありがとう?」
矢継ぎ早の言葉に、汐織が礼とも疑問ともつかない返事をした。褒められているのに、包囲が狭まっていく。妙な状況だった。
先頭の女子が、もじもじと指を絡ませながら、上目遣いに切り込んだ。
「それでね、その、一緒にいたのって……ううん、なんでもない。えっと、それでね」
質問した女子のほうが、言葉を選んで詰まっていた。
核心の一歩手前で、ぐるぐると旋回している。訊きたい、でも訊いていいのか。その葛藤が、こちらまで丸聞こえだった。
気付けば、教室のざわめきが消えていた。
全員、耳を立てて聞いている。教科書を立てて読むふりをしている奴も、弁当を広げかけて固まっている奴も、全員。聞いていないふりすら、もう放棄されていた。
麻貴は弁当袋を掴んだ姿勢のまま、動けなくなった。斜め前では隼太が、廊下側では沙子が、揃って観戦モードに入っている。助ける気は微塵もないらしい。
そして、ついに。
旋回していた質問が、直球に変わった。
「篠宮さんって……箕島くんと、付き合ってるの?」
教室が、静まり返った。
エアコンの唸りと、遠くの運動部の掛け声だけが、やけに大きく聞こえた。
(……来やがったか)
どう答えるんだ。いや、どう答えてもいいのか。この前までなら誤魔化す一択だったが、今は誤魔化す理由がなかった。ないのだが、心の準備というものがある。せめて事前に打ち合わせを。口裏を。
ひとりで空転する麻貴をよそに。
汐織は、ぱちりと瞬きをした。
それから、すっと小さく深呼吸をして。ちらり、とこちらを一度だけ窺ってから。
「……うん」
はにかんで、頷いた。
いつもの困ったような微笑ではない。隠しごとがひとつ減ったのが、それを言えたのが、嬉しくて仕方ないという笑顔だった。
一秒の、完全な静寂。
直後、教室が割れた。
「「「えええええーーーっ!?」」」
女子たちの悲鳴じみた歓声が、窓ガラスを震わせた。やっぱり、うそ、ほんとに、きゃー、と言葉にならない渦が汐織の席を呑み込んでいく。
いつから、どっちから、告白はどこで。矢継ぎ早の質問が四方から飛び交うが、興奮しすぎていて、もはや誰も回答を待っていなかった。廊下にまで人だかりができ始めている。隣のクラスの野次馬も参戦してきたらしい。
その渦の中心で、汐織は真っ赤になりながら、それでも顔は伏せずに笑っていた。
二日前、電車の中で顔を伏せていた女の子と、同一人物とは思えなかった。
歓声を上げる女子側と、見事に対照的な一角がある。
男子だ。
数人が、音を立てて魂を吐き出した。机に突っ伏す者、天井を仰ぐ者、無言で窓の外の入道雲を眺める者。教室の半分が祝祭で、半分が通夜だった。
やがて、通夜側から復活した数名が、よろよろとこちらへ詰め寄ってくる。
「み、箕島ぁぁ!! や、やっぱりそうだったのかよぉ!!」
「くそぅ……くそぅ……ッ!」
「嘘だと、嘘だと言ってくれえええ!」
定例の突撃だった。ただし、体育祭の日の殺気はもうない。あの日すでに惨敗している連中である。尋問というより、ほとんど嘆きだった。
麻貴は弁当袋を提げたまま、今回は逃げも隠れもせず、正面から受け止めた。
「い、いつからだよ! いつから付き合ってんだよ!」
良い質問だった。ちゃんと答えられる質問だ。
麻貴は息をひとつ吸って、はっきりと言ってやった。
「……正式に付き合い始めたのは、先週の土曜から、かな」
言った。言ってやった。
男子たちが、ばたばたと轟沈していく。最後のひとりが「せ、正式……」と繰り返しながら崩れ落ちた。心なしか、女子側の歓声が一段大きくなっていた。
体育祭の日は、防戦一方だった。質問に答えるだけで精一杯で、肝心なことは何ひとつ言えなかった。その借りを、ようやく返せた気分だ。
「はい散った散った。飯の時間なくなんぞー」
隼太が手を叩きながら割って入り、残骸と化した男子たちを追い払う。廊下側では沙子が、渦の中から汐織をするりと回収していた。
四人分の弁当と共に、騒然とした教室から脱出する。
背中に浴びる音の質が、朝までとはまるきり変わっていた。
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