第75話 もうキスはしたのかよ?
月曜の朝がこんなに憂鬱じゃないのは、生まれて初めてかもしれない。
昨日の別れ際の「また明日ね」を回収しに行く。登校というより、そういう気分だった。
いつもの坂を上り、いつもの校門をくぐる。空は憎らしいほどの快晴で、蝉は朝から全力で、七月の日差しがワイシャツの背中をじりじり炙ってきた。例年なら「あちー」の一言で片付く通学路なのに、今日はどうにも足取りが軽い。
なにせ、教室に行けば汐織がいるのだから。
カノジョが。恋人が。
……いや、昨日までもいたのだが。いたのだが、今日からは意味が違うのだ。この違いを説明しろと言われても困るが、とにかく違うものは違う。
我ながら浮つき切った思考回路に呆れつつ、麻貴は昇降口で靴を履き替えた。
そして、その浮つきは。
上履きに足を突っ込んだあたりで、きっちり没収された。
……視線が、ついてくる。
廊下ですれ違う生徒が、ちら、ちら、とこちらを窺っていた。ひそひそ声が、背後で湧いては消える。名前も知らない下級生の女子二人組など、すれ違いざまに「あの人だよね」「うそ、ほんとに?」と、聞こえる声量で答え合わせをしていった。
おい。本人の前でやるな、それを。
体育祭のあの一件からずっと続いている注目に、どうやら週末分の尾ひれがついたらしい。土日を挟んで、噂というやつは煮詰まるものと相場が決まっている。花火大会の会場で見かけた、という目撃情報でも出回っていなければいいのだが。
教室の戸を開けるや否や、ざわめきが一拍だけ止んだ。
それから、何事もなかったかのように再開する。何事もなかったかのように、の演技が、全員そろって下手くそだった。
「(……おい、やっぱりあのふたり……)」
「(体育祭のあれ、結局……)」
聞こえてる。全部聞こえてるからな、お前ら。
麻貴は素知らぬ顔で自分の席に着いた。隠すつもりは、もうない。ないのだが、朝一番からこの集中砲火は、心臓に悪かった。
机の陰でスマホを確かめると、今朝の汐織とのやり取りが目に入る。
【篠宮汐織:学校で会うの、ちょっと緊張するね】
【そうか? いつも通りでいいだろ】
いつも通りでいいだろ、ではない。送った側の自分が、一番いつも通りじゃなかった。過去の自分の余裕ぶった文面を、そっと閉じる。
少し遅れて、汐織が教室に入ってきた。
ざわめきが、また一拍止む。当の本人は、いつも通りの完璧な微笑で「おはよう」と挨拶を返しながら、涼しい顔で席へ向かっていった。あの体育祭の日、教室の包囲網を一言で黙らせた実績が効いているのだろう。直接訊きに行く命知らずは、現れなかった。
視線だけは、全方位から刺さり続けている。
そして、モブの好奇とは明らかに質の違う圧が、ひとつ。
斜め前の席から、隼太がこちらを振り返っていた。
にやにや、と擬音がつきそうな顔で。何も言わずに、ただ、にやにやとこちらを見ていた。
「……なんだよ、その顔」
「べっつにー? なーんにも言ってないだろ、俺は」
「顔がうるせえんだよ、顔が」
「おっ、自覚あるんだ? 何のことか言ってないのに」
……こいつ。
嵌められた、と思った時にはもう遅い。隼太のにやにやが、勝ち誇ったにやにやに進化した。
廊下側に目を逃がすと、状況はあちらも同じだった。沙子が汐織の机に頬杖をついて、まったく同じ顔で汐織を眺めている。王子と名高い整った顔が、今は実に悪い顔だった。汐織は完璧な微笑を保とうとして、保ちきれず、視線を泳がせている。
教室の対角線越しに、汐織と目が合った。
いや、合った、ではない。合わせたのだ。そして、頷き合う。言葉はなくても、考えていることは同じだった。
ここでは話せない。連行しよう。
麻貴は立ち上がって隼太の襟首を掴み、汐織は沙子の袖をきゅっとつまんだ。
「ちょ、おい、どこ連れてく気だよ」
「いいから来い」
教室を出る四人の背中に、ざわめきが倍になって突き刺さった。
連行先は、人気のない階段の踊り場。
朝のホームルーム前、ここまで来れば人通りはない。麻貴と汐織は、なぜか並んで立って、なぜか改まった空気を作ってしまった。向かいの二人は、揃って腕を組んで、面白そうに続きを待っている。
完全に、報告する側だけが緊張していた。
「で? わざわざこんなとこまで連れてきて、改まってどうしたの?」
「聞かなくてもわかるだろ、王子よ」
「まあね。でも、本人たちの口から聞きたいじゃない?」
外堀は、とっくに埋まっているらしい。それでも麻貴は咳払いをひとつして、口を開いた。
「あー……その、だな。実は」
「私たち、お付き合いすることになりました」
切り出しに手間取る麻貴の隣で、汐織がすっと頭を下げる。
言い切った。言い切った本人の耳が、誰よりも赤い。
「「知ってた」」
ふたりの声が、見事にハモった。一秒の間もない。
「食い気味に言うな!」
思わずツッコミを入れると、隼太と沙子は顔を見合わせて、それから同時に吹き出した。
「いや、だってなあ? 体育祭のあれ見せられてなあ?」
「あの借り物競争で確定演出だったよねえ」
「うぐ……」
ぐうの音も出ない、とはこのことだった。公衆の面前で手を繋いでおいて、今さら改まって報告も何もない。儀式だけが立派に空回りした形だった。
それでも、と沙子がふっと表情を緩める。
「ちゃんと報告してくれたのは嬉しいよ。よかったね、汐織。箕島くんも」
「うん」
「お、おう」
汐織が頷くと、沙子が長い腕を伸ばして彼女を抱き寄せ、頭をわしゃわしゃと撫で回した。汐織は撫でられるがままで、くすぐったそうに肩を竦めている。完璧超人の面影は、そこにはもうなかった。
一方、こちらはこちらで。
「ったくお! やーっとかよ! 焦らせやがってよぉ!!」
「背中! 背中痛いから!」
隼太の遠慮のない平手が、バシバシと背中に降ってきた。普通に痛い。痛いのだが、不思議と悪い気はしなかった。
沙子は撫でる手を止めて、汐織の顔を覗き込んだ。
「大事にしてもらいなよ?」
「うんっ」
迷いのない返事に、沙子が目を細める。それから、ちらりとこちらへ流し目をよこした。大事にしなかったら承知しない、と言外に語っていた。王子の圧は、モブの好奇の比ではない。
思えば、こいつには花火に誘う背中も押してもらった。沙子が汐織の側で色々と地均しをしてくれていたことも、なんとなく察している。このふたりがいなければ、あの境内までは辿り着けていなかったかもしれない。
「まあ、お前が煮え切らないのは今に始まったことじゃないけどな」
「うっせ」
礼を言うのは癪だったので、代わりに軽口を返しておいた。
肩から、力が抜けていく。
学校中の視線がどうであれ、少なくともここには、隠さなくていい場所がひとつできた。それだけで、ずいぶん息がしやすくなった気がする。
と、油断したのがまずかった。
ひとしきり祝福が済んだところで、隼太がにやりと身を乗り出してきた。
「で? もうキスはしたのかよ?」
「なっ……」
麻貴が言葉に詰まった、その隣で。
汐織が、ぼんっ、と音がしそうな勢いで真っ赤になった。両手で頬を押さえて、俯いて、それきり固まっている。
「…………」
「……うっわ」
沙子が、ぽつりと漏らした。
沈黙が、踊り場に落ちる。汐織は真っ赤なまま微動だにしない。誰がどう見ても、これが答えだった。
「答えてないだろ! まだ何も答えてないだろ!」
「顔が答えてんだよなぁ」
隼太がひゅう、と口笛を吹いた。
「聞いといてなんだけど、マジかー。健全で結構なことで」
「だから答えてな──」
「じゃあ質問変えるわ。したのか? してないのか?」
「変わってねえよ!」
質問の角度すら変える気がなかった。この男、完全に楽しんでやがる。
助けを求めて隣に目をやれば、汐織は固まったままで、援軍としては壊滅状態だった。むしろ、彼女の顔色こそが敵に塩を送り続けている。
「箕島くんの耳も真っ赤なんだよね」
「こっち見んな!」
「ふーん? 耳まで赤くして、何もないは通らないと思うけどなあ」
「お前もか王子ぃ!」
全方位から挟み撃ちだった。否定すれば嘘になるし、肯定する度胸は逆立ちしても出てこない。麻貴に残された選択肢は、赤面したまま「……次の話題」と絞り出すことだけだった。
「はいはい次の話題ね。で、ファーストキスはどっちから?」
「進んでるじゃねえか話題が!」
沙子がすっと手を伸ばし、隼太の後頭部をすぱんとはたく。
「痛っ!?」
「デリカシー」
「お前も乗っかってただろ今!?」
「私のは確認。あんたのは尋問」
「どう違うんだよ!」
王子の理屈は、今日も強引だった。しかし反論の途中で、沙子の目がすっと据わったので、隼太は両手を上げて降参していた。賢明な判断である。
汐織はというと、いつの間にか沙子の背中に避難して、出てくる気配がなかった。背中越しに、耳の赤さだけが覗いている。
「……も、もうその話はおしまい!」
背中の陰から、涙目の抗議だけが飛んできた。敬語になっている時点で、余裕のなさが丸わかりである。
学校一の清楚可憐な美少女の擬態は、身内の前では、こうもあっさり剥がれるらしかった。
予鈴が鳴って、報告会は強制的にお開き。
教室へ戻る廊下でも、視線は相変わらずついてくる。ただ、前を歩く隼太が、振り向かないまま軽い調子で言った。
「ま、なんかあったら俺らに言えよな」
「……おう。サンキュ」
「お礼はいいから、今度飯奢れな」
「台無しだよ」
その隣では、沙子が汐織に耳打ちして、汐織が「もうっ」と小さく笑っている。何を吹き込まれているのかは、怖いので考えないことにした。
教室に入ると、ざわめきがまた一拍止んで、再開した。
朝とまったく同じ光景のはずなのに、さっきより、居心地は悪くない。
席に着く間際、まだ頬の熱の引ききらない汐織と目が合った。ふたり同時に、さっと逸らす。逸らしてから、逸らす必要がないことを思い出し、お互いにもう一度目を合わせた。
(……朝から騒がしい一日になりそうだ)
一時間目の予習を開くふりをしながら、麻貴はこっそり息を吐いた。
口元が緩んでいたのは、たぶん、誰にもバレていないはずだ。




