表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
75/80

第75話 もうキスはしたのかよ?

 月曜の朝がこんなに憂鬱じゃないのは、生まれて初めてかもしれない。

 昨日の別れ際の「また明日ね」を回収しに行く。登校というより、そういう気分だった。

 いつもの坂を上り、いつもの校門をくぐる。空は憎らしいほどの快晴で、蝉は朝から全力で、七月の日差しがワイシャツの背中をじりじり炙ってきた。例年なら「あちー」の一言で片付く通学路なのに、今日はどうにも足取りが軽い。

 なにせ、教室に行けば汐織がいるのだから。

 カノジョが。恋人が。

 ……いや、昨日までもいたのだが。いたのだが、今日からは意味が違うのだ。この違いを説明しろと言われても困るが、とにかく違うものは違う。

 我ながら浮つき切った思考回路に呆れつつ、麻貴は昇降口で靴を履き替えた。

 そして、その浮つきは。

 上履きに足を突っ込んだあたりで、きっちり没収された。

 ……視線が、ついてくる。

 廊下ですれ違う生徒が、ちら、ちら、とこちらを窺っていた。ひそひそ声が、背後で湧いては消える。名前も知らない下級生の女子二人組など、すれ違いざまに「あの人だよね」「うそ、ほんとに?」と、聞こえる声量で答え合わせをしていった。

 おい。本人の前でやるな、それを。

 体育祭のあの一件からずっと続いている注目に、どうやら週末分の尾ひれがついたらしい。土日を挟んで、噂というやつは煮詰まるものと相場が決まっている。花火大会の会場で見かけた、という目撃情報でも出回っていなければいいのだが。

 教室の戸を開けるや否や、ざわめきが一拍だけ止んだ。

 それから、何事もなかったかのように再開する。何事もなかったかのように、の演技が、全員そろって下手くそだった。


「(……おい、やっぱりあのふたり……)」

「(体育祭のあれ、結局……)」


 聞こえてる。全部聞こえてるからな、お前ら。

 麻貴は素知らぬ顔で自分の席に着いた。隠すつもりは、もうない。ないのだが、朝一番からこの集中砲火は、心臓に悪かった。

 机の陰でスマホを確かめると、今朝の汐織とのやり取りが目に入る。


【篠宮汐織:学校で会うの、ちょっと緊張するね】

【そうか? いつも通りでいいだろ】


 いつも通りでいいだろ、ではない。送った側の自分が、一番いつも通りじゃなかった。過去の自分の余裕ぶった文面を、そっと閉じる。

 少し遅れて、汐織が教室に入ってきた。

 ざわめきが、また一拍止む。当の本人は、いつも通りの完璧な微笑で「おはよう」と挨拶を返しながら、涼しい顔で席へ向かっていった。あの体育祭の日、教室の包囲網を一言で黙らせた実績が効いているのだろう。直接訊きに行く命知らずは、現れなかった。

 視線だけは、全方位から刺さり続けている。

 そして、モブの好奇とは明らかに質の違う圧が、ひとつ。

 斜め前の席から、隼太がこちらを振り返っていた。

 にやにや、と擬音がつきそうな顔で。何も言わずに、ただ、にやにやとこちらを見ていた。


「……なんだよ、その顔」

「べっつにー? なーんにも言ってないだろ、俺は」

「顔がうるせえんだよ、顔が」

「おっ、自覚あるんだ? 何のことか言ってないのに」


 ……こいつ。

 嵌められた、と思った時にはもう遅い。隼太のにやにやが、勝ち誇ったにやにやに進化した。

 廊下側に目を逃がすと、状況はあちらも同じだった。沙子が汐織の机に頬杖をついて、まったく同じ顔で汐織を眺めている。王子と名高い整った顔が、今は実に悪い顔だった。汐織は完璧な微笑を保とうとして、保ちきれず、視線を泳がせている。

 教室の対角線越しに、汐織と目が合った。

 いや、合った、ではない。合わせたのだ。そして、頷き合う。言葉はなくても、考えていることは同じだった。

 ここでは話せない。連行しよう。

 麻貴は立ち上がって隼太の襟首を掴み、汐織は沙子の袖をきゅっとつまんだ。


「ちょ、おい、どこ連れてく気だよ」

「いいから来い」


 教室を出る四人の背中に、ざわめきが倍になって突き刺さった。

 連行先は、人気のない階段の踊り場。

 朝のホームルーム前、ここまで来れば人通りはない。麻貴と汐織は、なぜか並んで立って、なぜか改まった空気を作ってしまった。向かいの二人は、揃って腕を組んで、面白そうに続きを待っている。

 完全に、報告する側だけが緊張していた。


「で? わざわざこんなとこまで連れてきて、改まってどうしたの?」

「聞かなくてもわかるだろ、王子よ」

「まあね。でも、本人たちの口から聞きたいじゃない?」


 外堀は、とっくに埋まっているらしい。それでも麻貴は咳払いをひとつして、口を開いた。


「あー……その、だな。実は」

「私たち、お付き合いすることになりました」


 切り出しに手間取る麻貴の隣で、汐織がすっと頭を下げる。

 言い切った。言い切った本人の耳が、誰よりも赤い。


「「知ってた」」


 ふたりの声が、見事にハモった。一秒の間もない。


「食い気味に言うな!」


 思わずツッコミを入れると、隼太と沙子は顔を見合わせて、それから同時に吹き出した。


「いや、だってなあ? 体育祭のあれ見せられてなあ?」

「あの借り物競争で確定演出だったよねえ」

「うぐ……」


 ぐうの音も出ない、とはこのことだった。公衆の面前で手を繋いでおいて、今さら改まって報告も何もない。儀式だけが立派に空回りした形だった。

 それでも、と沙子がふっと表情を緩める。


「ちゃんと報告してくれたのは嬉しいよ。よかったね、汐織。箕島くんも」

「うん」

「お、おう」


 汐織が頷くと、沙子が長い腕を伸ばして彼女を抱き寄せ、頭をわしゃわしゃと撫で回した。汐織は撫でられるがままで、くすぐったそうに肩を竦めている。完璧超人の面影は、そこにはもうなかった。

 一方、こちらはこちらで。


「ったくお! やーっとかよ! 焦らせやがってよぉ!!」

「背中! 背中痛いから!」


 隼太の遠慮のない平手が、バシバシと背中に降ってきた。普通に痛い。痛いのだが、不思議と悪い気はしなかった。

 沙子は撫でる手を止めて、汐織の顔を覗き込んだ。


「大事にしてもらいなよ?」

「うんっ」


 迷いのない返事に、沙子が目を細める。それから、ちらりとこちらへ流し目をよこした。大事にしなかったら承知しない、と言外に語っていた。王子の圧は、モブの好奇の比ではない。

 思えば、こいつには花火に誘う背中も押してもらった。沙子が汐織の側で色々と地均しをしてくれていたことも、なんとなく察している。このふたりがいなければ、あの境内までは辿り着けていなかったかもしれない。


「まあ、お前が煮え切らないのは今に始まったことじゃないけどな」

「うっせ」


 礼を言うのは癪だったので、代わりに軽口を返しておいた。

 肩から、力が抜けていく。

 学校中の視線がどうであれ、少なくともここには、隠さなくていい場所がひとつできた。それだけで、ずいぶん息がしやすくなった気がする。

 と、油断したのがまずかった。

 ひとしきり祝福が済んだところで、隼太がにやりと身を乗り出してきた。


「で? もうキスはしたのかよ?」

「なっ……」


 麻貴が言葉に詰まった、その隣で。

 汐織が、ぼんっ、と音がしそうな勢いで真っ赤になった。両手で頬を押さえて、俯いて、それきり固まっている。


「…………」

「……うっわ」


 沙子が、ぽつりと漏らした。

 沈黙が、踊り場に落ちる。汐織は真っ赤なまま微動だにしない。誰がどう見ても、これが答えだった。


「答えてないだろ! まだ何も答えてないだろ!」

「顔が答えてんだよなぁ」


 隼太がひゅう、と口笛を吹いた。


「聞いといてなんだけど、マジかー。健全で結構なことで」

「だから答えてな──」

「じゃあ質問変えるわ。したのか? してないのか?」

「変わってねえよ!」


 質問の角度すら変える気がなかった。この男、完全に楽しんでやがる。

 助けを求めて隣に目をやれば、汐織は固まったままで、援軍としては壊滅状態だった。むしろ、彼女の顔色こそが敵に塩を送り続けている。


「箕島くんの耳も真っ赤なんだよね」

「こっち見んな!」

「ふーん? 耳まで赤くして、何もないは通らないと思うけどなあ」

「お前もか王子ぃ!」


 全方位から挟み撃ちだった。否定すれば嘘になるし、肯定する度胸は逆立ちしても出てこない。麻貴に残された選択肢は、赤面したまま「……次の話題」と絞り出すことだけだった。


「はいはい次の話題ね。で、ファーストキスはどっちから?」

「進んでるじゃねえか話題が!」


 沙子がすっと手を伸ばし、隼太の後頭部をすぱんとはたく。


「痛っ!?」

「デリカシー」

「お前も乗っかってただろ今!?」

「私のは確認。あんたのは尋問」

「どう違うんだよ!」


 王子の理屈は、今日も強引だった。しかし反論の途中で、沙子の目がすっと据わったので、隼太は両手を上げて降参していた。賢明な判断である。

 汐織はというと、いつの間にか沙子の背中に避難して、出てくる気配がなかった。背中越しに、耳の赤さだけが覗いている。


「……も、もうその話はおしまい!」


 背中の陰から、涙目の抗議だけが飛んできた。敬語になっている時点で、余裕のなさが丸わかりである。

 学校一の清楚可憐な美少女の擬態は、身内の前では、こうもあっさり剥がれるらしかった。

 予鈴が鳴って、報告会は強制的にお開き。

 教室へ戻る廊下でも、視線は相変わらずついてくる。ただ、前を歩く隼太が、振り向かないまま軽い調子で言った。


「ま、なんかあったら俺らに言えよな」

「……おう。サンキュ」

「お礼はいいから、今度飯奢れな」

「台無しだよ」


 その隣では、沙子が汐織に耳打ちして、汐織が「もうっ」と小さく笑っている。何を吹き込まれているのかは、怖いので考えないことにした。

 教室に入ると、ざわめきがまた一拍止んで、再開した。

 朝とまったく同じ光景のはずなのに、さっきより、居心地は悪くない。

 席に着く間際、まだ頬の熱の引ききらない汐織と目が合った。ふたり同時に、さっと逸らす。逸らしてから、逸らす必要がないことを思い出し、お互いにもう一度目を合わせた。


(……朝から騒がしい一日になりそうだ)


 一時間目の予習を開くふりをしながら、麻貴はこっそり息を吐いた。

 口元が緩んでいたのは、たぶん、誰にもバレていないはずだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ