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第74話 恋人と過ごす、初めての日曜日②

 豪華な素麺を平らげて、洗い物をふたりで済ませて。

 午後になると、ローテーブルには参考書が広げられた。汐織が鞄から出してきたものだ。期末が終わったばかりだというのに、もう次の勉強をするらしい。


「夏休みでさサボると、二学期で苦労するよ?」


 と言いつつ、ちらり、とこちらを窺う目が「主にあなたが」と語っていた。

 成績を落とさないこと。それが、麻貴がこの町で独り暮らしを続けるための条件だった。彼女はそれを、ちゃんと覚えてくれているからこそ、わざわざ勉強の提案をしてくれたのだろう。

 ……のだが。

 テストは終わったばかり。締め切りも緊張感もない日曜日に、捗るはずがなかった。扇風機が首を振り、蝉の声が窓越しに降ってくる中、数学のページは一向に進まない。会話も、途切れがちになっていった。

 でも、その沈黙は嫌なものではない。

 以前から、彼女との間に落ちる沈黙に、不安や気まずさを覚えたことは、あまりなかった。それが今は、心地良いとまで思える。隣で彼女がペンを走らせている音だけで、部屋の空気が柔らかくなった気さえした。

 ……と、その音が、いつの間にか止んでいた。

 隣を窺うと、汐織がこくり、こくりと船を漕いでいる。昨日は花火で遅かったし、今日も昼前からずっと動きっぱなしだったのだ。無理もない。

 起こすべきかどうか、迷っているうちに。

 こてん、と彼女の頭が、麻貴の肩に乗った。

 昨日の電車の再演だ。ただ、昨日あれだけ騒がしかった心臓が、今日は不思議と凪いでいた。代わりに、胸の真ん中があったかい。

 麻貴はシャーペンを置いて、扇風機の首振りを止め、風向きを彼女に合わせた。それから、じっと動かぬようにその場待機。

 二十分もすると、腕が痺れてきた。

 それでも、動かない。

 三十分ほど経った頃、肩の上で、小さく身じろぎがあった。


「んっ……」


 寝ぼけた声を漏らして、汐織がゆっくりと瞼を持ち上げた。焦点の合わない目が、至近距離にある麻貴の顔をぼんやりと捉える。


「おはよう」

「あっ。……もしかして私、寝てた?」


 声をかけてやると、まだ夢の中にいた頭が一気に覚めたらしい。肩から飛び退くように身体を起こして、乱れた髪を慌てて手櫛で直し始める。


「三十分くらいな」

「うそ……。腕、痺れてない?」


 みるみるうちに頬を染めながら、上目遣いにこちらの右腕を気にしてくる。


「平気平気。痺れてない」


 痺れている。

 汐織は疑わしげにこちらを覗き込んでから、ふにゃりと眉を下げて笑った。


「じゃあ、もうちょっとだけ……こうしてていい?」

「……もちろん」


 直りかけた姿勢が、また肩に戻ってくる。

 腕の痺れの申告は、当分できそうになかった。


「そういえば、夏休みって」


 身体を肩に預けながら、汐織がふと思い出したように口を開いた。


「ん?」

「……放課後、ないよね」

「あー……まあ」


 放課後だけ、台所に逃げ込んでくる。

 それが、ふたりの始まりのルールだった。夏休みという長い休みのことなんて、あのルールのどこにも書かれていない。

 彼女の言いたいことを察するのに、時間は要らなかった。麻貴は言った。


「前にも言っただろ? いつでも来ればいいって」


 汐織が、ぱちりと目を瞬かせた。

 窺うようなためらいの色が、ゆっくりと解けていく。それから、堪えきれなくなったように口元が緩んで、花がほどけるような笑顔になった。


「……うん。じゃあ、来ちゃう」


 遠慮のない返事。その遠慮のなさが、嬉しかった。契約だの条件だの、そういう建前はとっくに形骸化していた。今はただ、来たいから来る。それだけでよかった。

 それからおよそ数時間。日が落ちてきたので、彼女を駅まで送ることにした。

 昨日と違って、道のりは徒歩数分。夜の商店街は人通りもまばらで、シャッターの下りた店先を、繋いだ手がゆっくりと通り過ぎていった。

 羽瀬ヶ崎駅の改札前で、汐織がくるりと振り返る。


「今日は、ここまででいいよ?」

「残念。また藤澤まで送っていこうと思ったのに」

「あ、やっぱり来るつもりだったんだ? でも、毎回だと私も申し訳なくなっちゃうから……そういうのは、特別な日だけにしよ?」

「……わかったよ。今日は諦める」


 麻貴は残念そうに肩を竦めてみせた。そう言われてしまうと、退くしかない。

 彼女は元々、人に気を遣われることをあまりよしとしない性格だ。負担になるようであれば、それは避けた方がいい。親切の押し売りと願望の押しつけは、いつだったいい方向になど動かないのだから。


「じゃあ、また明日ね」

「おう。着いたらLIMEな」

「……うん」


 昨日は心配性だと笑っていたのに、今日は素直に頷いた。頷いてから、口元が緩んでいる。

 改札の中に、人影はない。ホームにも、商店街の側にも、誰の姿もなかった。

 それを、どちらからともなく確かめて──お互いに、顔を寄せ合う。短く、唇が触れるだけのキスをひとつ。

 昨日より少しだけ、上手になった気がする。


「えへへ。おやすみ、麻貴くん」

「おう。おやすみ」


 汐織は改札を抜けて、階段の途中で一度振り返り、小さく手を振った。

 やがてホームに電車が滑り込む。走り出して、音が遠ざかっていく。

 麻貴はひとり、夜の商店街を引き返した。

 考えてみれば、今日は本当に、事件のひとつもない一日だ。買い出しをして、飯を作って、勉強をさぼって、うたた寝に付き合って。それだけの、絵に描いたように何もない一日。なのに──。


(……なんだったんだ、今日の破壊力は)


 何もない一日が、こんなに惜しくて、特別だとは知らなかった。

 明日は、どんな特別が待っているんだろうか?

 それが楽しみで仕方ないまま。家までの夜道を、少しだけゆっくり歩いた。

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