第73話 恋人と過ごす、初めての日曜日
目が覚めた麻貴が最初にしたのは、枕元のスマホを手繰り寄せることだった。
昨夜のトーク画面。【ついたよ。今日はありがとう】【おう。おやすみ】のやり取りの下に、新しい吹き出しがひとつ増えている。
【篠宮汐織:おはよう】
たったの四文字。
たった四文字で、麻貴は布団から飛び起きた。昨夜、バス停で置いてけぼりにされたあの寂しさが、綺麗に消し飛んでいく。我ながら、わかりやすい男である。
返信の文面を打っては消し、打っては消し。三回書き直した末に送ったのは、結局これだった。
【おはよう。今日どうする?】
【篠宮汐織:お昼までに行くね。お昼ごはん、一緒に作ろ?】
即レス。しかも、来る前提。
文面だけなら、昨日までと何ひとつ変わらない。変わったのは、これを読む側の心臓の方だった。
時計を確かめると、昼まではまだ少しある。
麻貴はスマホを置いて、なぜか部屋の片付けを始めた。別に、今まで通りでいいはずなのに。床に転がっていた漫画を本棚に戻し、脱ぎっぱなしの服を洗濯機に放り込む。
(何を張り切ってんだかな、俺は)
自分に突っ込みながらも、手は止まらなかった。
そうして掃除や準備をし終えて時間を持て余すこと、数時間。
昼前に、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、白いワンピースの汐織が立っていた。昨日の浴衣も反則だったが、私服も今日は直視しづらい。
「……おはよ」
「お、おう。おはよう」
それだけの挨拶が、やたらとぎこちなかった。
互いに数秒固まって、それから汐織が先に吹き出す。
「ふふっ。なんで麻貴くんが緊張してるの?」
「お前もだろ」
「私は……ちょっとだけ、です」
ちょっとで済むなら、耳は赤くならないと思う。
連れ立って、いつものスーパーへ向かった。カゴを持つのは麻貴、特売の札を吟味するのは汐織。定位置は契約の頃から変わらないのに、歩く間隔だけが、半歩、縮んでいた。
青果コーナーの前で、汐織が振り返った。
「今日はお素麺にしようと思うんだけど、薬味なにがいい?」
「ミョウガ」
「ミョウガ。好きなの?」
目を丸くして、それからおかしそうに口元を押さえる。
「いや、テキトー。ぱっと浮かんだのがそれだっただけ」
「もう。真面目に考えてよ」
頬を軽く膨らませて、ネギの束をこちらに突き付けてくる。武器にしては、いささか頼りなかった。
「薬味はよくわかんねーんだよ。汐織の好きなの入れてくれ」
「じゃあ……ミョウガと、大葉と生姜も」
言いながら、汐織は慣れた手つきで棚から順に取り上げていく。ひとつ選ぶたびに指を折って、献立を頭の中で組み立てているらしい。最後にナスを手に取って、こちらを振り仰いだ。
「あとは卵焼きと、ナスの揚げ浸しでいい?」
「豪華な素麺だな」
「だって、初めての……その、記念日、みたいなものだし」
語尾が萎んでいく。耳が赤いのは、お互い様だった。
カゴにナスを収めながら、汐織がぽつりと続ける。
「……前からね」
「ん?」
「こうやってふたりでお買い物して、食材選んだりしてると……なんだかカップルみたいだなーって。ちょっと思ってて」
思わず、受け取った袋を落としそうになった。
澄ました顔で特売品を選んでいたこの子が、その裏でそんなことを考えていたとは。
「……俺も」
「やっぱり?」
「でも、恥ずかしくて言えなかった。言って意識させたら、嫌がられるんじゃないかって思ってさ」
「私も」
顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
考えていたことは、似たようなものだったらしい。隠していた場所まで同じだ。
「でも、もう……」
「ほんとのカップルになっちゃったね」
「だな」
照れ笑いを交わして、レジへ向かう。
レジのおばちゃんの、いつもより二割増しにこやかな会釈に、ふたり揃って背筋が伸びた。
*
台所に立つと、汐織はいつも通りエプロンを締めた。
いつも通り手伝いを申し出て、麻貴はいつも通り卵焼き係を拝命する。ここまでは、完全にいつも通りだ。
違ったのは、距離だった。
狭い台所に並んで作業するうち、肩が触れそうな位置になっていることに気付く。付き合う前なら、どちらかが半歩ずれていた。しかし──今日は、どちらもずれなかった。
揚げ浸しの鍋から、出汁の匂いが立ち上る。味を確かめた汐織が、菜箸でナスを一切れつまんで、こちらへ差し出してきた。
「味見、してみて。……はい」
小皿は、ない。
菜箸の先のナスと汐織の顔を見比べて、麻貴は固まった。汐織も自分のしたことに気付いたのか、じわじわと頬を染めていく。
「ご、ごめん、つい……」
「い、いや。いい」
観念して、口で受け取った。
出汁の染みたナスは、いつも通りの味がした。いつも通りの味なのに、妙な敗北感がある。
「……美味い」
「よかったぁ」
声が上擦ったのは、揚げ浸しが熱かったせいだ。そういうことにしておく。
そのままで終われるほど、麻貴も大人しくはなかった。焼き上がった卵焼きの端を箸でつまんで、今度はこちらから差し出してやる。
「ほら。お前も味見」
「え!? えっと……あ、あーん……?」
「言うなよ、それを」
言われると、こっちの手が震えるだろうが。
汐織はぱくりと受け取ると、もぐもぐと咀嚼して、くしゃっと笑った。
「上手になったね、卵焼き」
「師匠が良いもんで」
これで、おあいこだ。
素麺を茹でる湯気の向こうで、蝉がじじ、と短く鳴いた。
恋人同士になってから、初めて過ごす日曜日。
それはいつもと同じようで、ほんの少しだけ、違っていた。




