第72話 彼氏なんで
花火が終わっても、ふたりはベンチから立ち上がらなかった。
境内には虫の音と、葉擦れと、遠くの波の音だけが残っている。
無論、もう話すことは特になかった。気持ちなら既に散々伝え合ったし、少なくとも、今日話すべきことは全て話し終えたはずだ。
それなのに──ただ「帰ろう」のひと言だけが、ふたりの間で保留になったままだった。
その言葉を保留にしたまま、どちらからともなく顔を寄せ合って。飽きもせずに、キスをした。それから顔を離すと目が合って、照れ笑いを交わし合う。そんなやり取りが、もう三度目だった。
(……何やってんだ、俺たちは)
我ながら、締まりのない顔をしている自信がある。でも、やめられなかった。やめる理由の方が、どこにも見当たらない。
記念すべきファーストキスの日に、もはや数え切れないほどのキスをしてしまった。
汐織が巾着からスマホを取り出して、画面をちらりと確かめる。時刻表示に、彼女の眉が残念そうに下がった。
さすがに、時間的にもこれ以上はまずいか。麻貴は小さく息を吐いて、切り出す。
「そろそろ、帰らないとな」
「……そうだね」
言葉とは裏腹に、どちらも動かない。
虫の音が、ひとしきり鳴いて、止んだ。
少しの間を置いて、もう一度。
「帰らないとな」
「うん」
やっぱり、動かない。
三往復目で、ついに汐織が吹き出した。
「ふふっ。全然帰らないね、私たち」
「お前もな」
「だって……帰りたく、ないし」
拗ねたように唇を尖らせて、上目でこちらを窺ってくる。まるで、そっちはそうじゃないのか、とでも言いたげだ。
不意打ちにも程がある。付き合って数時間で、この子はこんな台詞を繰り出してくるようになってしまった。先程の我慢しない宣言は、伊達ではなかったらしい。
「そういうこと言われると、本当に帰したくなくなっちゃうから、やめるように」
「帰したくないんだ……?」
汐織がおずおずといった様子で、こちらの顔を覗き込んで訊いてきた。
「そりゃそうだろ」
浴衣姿の汐織が隣にいて、そんな汐織と恋人同士になったばかりなのだ。誰だって帰したくないに違いない。
すると、彼女は何か物言いたげにこちらをちらりと見て。こう、独り言ちた。
「……着替え、持ってくればよかったなぁ」
「はい!?」
思わず変な声が出た。
着替えがあったら、って。それはつまり、あった場合はどうなっていたのだろうか。
まさか泊まりに──と想像しかけて、慌てて頭を振った。まだ付き合って数時間なのに、一体何を考えているんだ。
汐織も言ってから気付いたのか、みるみるうちに耳まで赤くなっていった。
「ち、違うの! 今のは、その……深い意味はなくて」
「お、おう。わかってるって」
「……ほんとだよ?」
「わかってるわかってる」
わかっていない。何ひとつわかっていないが、これ以上掘り下げたらお互いに火傷するのは間違いなかった。
ちなみに、もう一つ掘り下げたらまずそうなことだが……汐織の着替えなら、部屋にあるはずだ。
あの雷の日の翌日、楽に過ごせる服装を置いておいたらどうだと提案した際に、彼女は着替えを持ってきていた。それらは今も、クローゼットの隅っこで眠っている。曰く、『色々入っている』らしいので、きっと一泊くらいなら、何とかなるのではないだろうか?
そうは思うものの、そんなことを言ってしまえば、お互いに逃げ道を塞ぐことになってしまう。さすがに付き合ってそうそうにそれは、色々とまずかった。付き合う前に、既にお泊まりしている仲じゃないかと言われると、確かにそうなのだが。
……いや、だからこそまずいのだ。あの時は何とか我慢できたが、今はできる気がしない。
「よ、よし! 帰るか」
色々な妄想を吹き飛ばすように言って、麻貴は立ち上がった。
彼女もこくこくと頷き、ベンチの上のハンカチを畳んで、帰り支度を始めた。
名残惜しさは、まだ胸の底に居座っている。でも、時間はもう十分すぎるほど引き延ばした。祭りの人波も、そろそろ引けた頃合いだろう。
石段を、手を繋いだまま降りていく。
行きと同じ道。同じ手。なのに、意味だけが変わっていた。上りは「滑ると危ないから」なんて理屈をわざわざ付けたのに、帰りは、どちらも理由を口にしないまま手を伸ばしている。理屈が、もう要らなかった。ただそれだけの変化が指先から伝わってきて、妙にくすぐったくなる。
祭り帰りの人波を避けて、裏道から鎌蔵駅へ回った。提灯の灯りが遠ざかって、住宅街の静けさが戻ってくる。塀の向こうのどこかの家から、風鈴がちりんと鳴った。
駅に着くと、榎ノ電のホームには、思ったより人が少なくなっていた。花火帰りの客はまだ会場付近に残っているのか、それとももう帰りきったのか。
始発駅の利点で、ふたり並んでシートに座れた。膝の上には、繋いだままの手。隣には、浴衣の汐織。その非日常が、乗り慣れた榎ノ電の日常と静かに混ざり合っている。
「座れてよかったな」
「うん。この時間に鎌蔵から乗るの、初めてかも」
「言われてみれば、俺も初めてかな」
「今日は、特別なことばっかりだね」
汐織がふふっと小さく笑った。
発車のベルが鳴って、電車がゆっくりと動き出す。窓の外を、鎌蔵の夜の町並みが流れ始めた。
車内が落ち着いていたのは、最初の数駅だけだ。
百合ヶ浜駅に着いた途端車内の空気ががらりと変わって、ホームに溢れていた浴衣の集団が、どっと乗り込んでくる。
花火会場の最寄り駅だ。うちわで首元を扇ぐ音、屋台の戦利品らしいビニール袋、それから火薬の匂いの名残。さっきまで静かだった車内が、一気に祭りの続きになった。
「わっ……すごい人だね」
「ああ」
小声で交わして、それきりになった。
これだけ人がいれば、この中に同じ学校の生徒がいてもおかしくない。示し合わせたわけでもないのに、ふたりは同時に顔を伏せていた。
でも、膝の上の手は解かないまま。
むしろ、汐織の指がきゅっと力を込めてきた。応えるように握り返すと、その指が小さく動いて、麻貴の指の間にするりと収まる。
……恋人繋ぎ。まさか、電車の中ですることになるとは思ってもないなかった。
(これ、バレたらなんて言い訳すればいいんだろうな?)
一瞬考えてから、言い訳なんてする必要がないかと改める。何せ、ふたりはもう付き合っているのだから。
頭上では誰かが花火の感想を言い合っていて、衣擦れの音が絶えず、車内は賑やかなままで。その真下で、ふたりだけが俯いて、指を絡ませていた。
顔は隠すが、手は離さない。
学校で他人のふりをしていた頃と似ているようで、全然違っていた。あの頃は隠すものしかなかったのに、今は隠しながら繋がっているものがある。
窓の外には、夜の海。月明かりの下で、波頭だけが白く浮かんでいた。
『次は、羽瀬ヶ崎ー、羽瀬ヶ崎ー』
それから数駅無言で過ごしていると、間延びしたアナウンスが流れて、電車が減速を始めた。
麻貴の最寄り駅だ。汐織が繋いだ手を軽く揺すって、降車を促す。名残惜しさを飲み込んだような、遠慮がちな揺すり方だった。
でも、麻貴は座ったまま動かない。堪らず、汐織が訊いてきた。
「麻貴くん、降りないの?」
「藤澤まで送ってくよ」
麻貴が答えると、彼女は眉を八の字にして、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「え? でも……」
「今日、人多いしさ。浴衣で夜道とか、その……万が一があるだろ。彼氏なんだから、これくらいさせろって」
訊かれてもいない理由まで、早口で付け足してしまった。
言ってから、最後のひと言が余計だったと気付く。耳が熱くなった。
(言い訳がましいな、俺は……)
ドアが閉まって、電車がまた動き出した。窓の外を、降りるはずだった駅が後ろへ流れていく。手を繋いだまま自分の最寄り駅を見送るのは妙に新鮮で、少しだけ大人になった気分だ。
隣で、汐織が嬉しそうにはにかんで。
「……ありがとう」
そう囁いて、こてん、と。彼女の頭が、麻貴の肩に乗せられた。
心臓が、跳ねる。
肩口に、彼女の重みとトリートメントの匂い。長い黒髪が腕に触れて、さらりと流れた。どこからどう見ても、恋人同士のそれだ。いや、実際に恋人同士なのだけれど、事実と実感の間には、まだだいぶ距離がある。
顔を伏せる必要は、もうどこにもなかった。百合ヶ浜で乗ってきた客の大半は榎島で降りて、車内はそこそこ空いている。だからこれは、そうしたかったから、そうした。ただそれだけの話なのだろう。
電車の振動に合わせて、肩の上の重みが小さく揺れた。
鼓動がばくばくと騒がしい。この音が肩越しに伝わっていないことを、麻貴は心底祈った。
*
何事もなく、終点に着いた。藤澤駅だ。
改札へ向かう階段の手前で、汐織がふと立ち止まった。
「あの、ここまでで大丈夫だよ?」
「え、なんで?」
「だって麻貴くん、藤澤は定期外でしょ?」
「あー……まあ、確かに」
なるほど。彼女が気にしているのは、そこか。
麻貴は頷くだけ頷いて、そのまま普通に歩き続けた。IC定期をタッチして、汐織より先に改札を抜ける。精算分の運賃が、ぴっと軽い音とともに引かれた。
「あー、わり。もう改札出ちった」
「あっ、ずるい!」
「ずるくねーよ。合理的判断だ」
「ええ……」
汐織は不服そうに眉を顰めながらも、小走りに改札を抜けて、隣に並んだ。呆れている、というポーズだけで、口元は全然隠しきれていない。
二百円かそこらの運賃で彼女をバス乗り場まで送れるのなら、どう考えても安い買い物だった。むしろお釣りがくる。
駅ビルの明かりの下、祭り帰りの人波も、ここまで来ればもうまばらだった。バスロータリーまでの短い道のりを、また手を繋いで歩く。浴衣の裾が、彼女の歩幅に合わせて小さく揺れていた。
バス乗り場には、偶然、誰もいなかった。
時刻表を確かめると、次のバスまであと数分。ベンチに座るほどでもない、中途半端で、でも確かにふたりきりの時間だった。
汐織がスマホを取り出して、短くメッセージを打つ。画面はちらりとしか映らなかったけれど、宛先の察しはついた。今から帰る、とでも送ったのだろう。
「じゃあ……また、明日ね」
汐織はスマホを巾着に仕舞うと、こちらに向き直って言った。やっぱり、少し名残惜しそうだ。
「うん。家着いたらLIMEしろな」
「心配性だなぁ」
「彼氏なんで」
「もう。すぐそれ言う」
口ではそう咎めながら、汐織の頬は綻びっぱなしだった。今日この単語を覚えたての男を、どうか笑わないでやってほしい。
ロータリーの向こうから、ヘッドライトがゆっくりと近づいてくる。行き先表示を確かめて、汐織が「あ、来ちゃった」と小さく呟いた。来ちゃった、という言い方に、彼女の本音が滲んでいる。
バスが減速して、目の前に停まった。
周囲に人の姿はなくて──どちらからともなく、顔を寄せる。
ドアが開くまでの、ほんの短い間。触れるだけのキスを、ひとつ。
唇が離れると、至近距離で目が合って、ふたり揃って照れ臭そうに口元を緩めた。境内でのそれよりずっと軽くて、短くて。でも、確かなキスだった。
「じゃあ……おやすみなさい」
「おう。おやすみ」
汐織ははにかんで小首を傾げると、ステップを上がってバスに乗り込んだ。IC定期をタッチして、少し奥へ進んでから、こちらを振り返る。
窓越しに、小さく手を振ってくれた。
麻貴も片手を上げて、それに応える。
ドアが閉まって、バスが走り出した。窓の向こうで、汐織はまだこちらに手を振っていた。浴衣の白が、車内灯の下で遠ざかっていく。
テールランプがロータリーの角を曲がって、消えていった。
(はあ……なんか、寂しいな)
祭りの音はもうどこにもなくて、ロータリーを吹き抜ける風が、少しだけ涼しかった。
右の手のひらには、まだ彼女の熱が残っている。
……また明日。
その響きを胸の中で転がしながら、麻貴は改札への階段を、ゆっくりと引き返していった。




