第71話 契約から、別の何かへ
「……なんだか、夢みたい」
あれから何度かまたキスを繰り返して、唇を離した時。
汐織がぽつりと漏らした。
「俺もだよ」
本当に、そう思う。
ほんの一ヶ月ちょっと前まで、まともに話したこともなかった相手だ。台所を貸して、その代わりに飯を作ってもらう。最初はただ、それだけだったはずなのに。
それが、こうして花火の下で、好きだと伝え合っている。
どう考えても、妄想じみていた。一週間前の自分にこの状況を話したところで、絶対に信じてもらえないだろう。
遠くで、また一発、花火が上がった。
今度は、ふたりで少しだけ空のほうを見上げる。
そこで、汐織がくすっと笑った。
「せっかく花火見に来たのに、全然見てなかったね」
「確かに」
告白する前は、空に目をやる余裕もなかった。今は、隣に汐織がいて。それが胸の真ん中にどっしりと収まっていて、ようやく、花火が「見える」気がした。
木立の切れ目の向こう、群青に沈んだ海の上で、橙の大輪がゆっくりと開いて、こぼれるように散っていく。少し遅れて、その音が腹に届いた。
「……綺麗」
「ああ」
短く返して、麻貴も空を見上げた。
肩のあたりに、汐織の体温がある。それだけのことが、今は、やけに大きく感じられた。
身を寄せ合ったまま暫く花火を眺めていると、ふとあることを思い出した。
「そういやお前……昨日の砂浜でさ」
「なあに?」
「小指、引っ掛けてきただろ」
言ってやると、汐織の耳がぽっと赤くなった。
「気付いてたんだ?」
「気付くに決まってんだろ。あれ、わざとだよな?」
「……わざと、です」
観念したように、汐織が小さく白状した。
麻貴は呆れたように大きく溜め息を吐いた。
「あれこそずるいだろ。意識するなって方が無理だ」
あれのせいで、こっちの寿命がいくつ縮んだかわかりやしない。
「だ、だって。せっかく花火誘ってくれたのに……手、繋いでくれなかったから」
「うっ……ごめん」
どうやら汐織は汐織で、ご不満だったらしい。
麻貴としては今日のためにとっておいたつもりだったが、汐織にしてみれば、そうではなかったのだ。
もしかすると、昨日の段階で告白してもよかったのかもしれない。でも、今日告白した方がいいと思ったし、それが間違いではなかったというのは、今の汐織を見ていれば明らかだ。
麻貴は汐織のほうへ、改めて向き直った。
そして──ちゃんと胸の内の想いを、言葉にする。
「俺さ。お前のこと、絶対に幸せにするから」
汐織は、一瞬きょとんとして。それから、泣き笑いみたいな顔になった。
「私、もう幸せだよ……?」
「なら、もっと幸せにするよ。嫌なことも、家のことも。全部気にならないくらいに、さ」
「そんなことされたら、幸せ過ぎて死んじゃうよ」
くすくす笑って、それから汐織は、ちょっとだけ得意げに付け足した。
「じゃあ……私も、麻貴くんのこと、幸せにする」
「俺はもう十分幸せだけどなぁ」
「全然足りないよ。嫌なことも気にならないくらい、幸せにしないと」
「それは、幸せ過ぎて死にそうだ」
同じことを言い合っていることに気づいて、ふたりで吹き出した。
くだらない。本当に、くだらないやり取りだ。でも、その奥にあるものは、たぶん、同じだ。
そんなことを言い合っているうちに──そういえば、と気付いた。
空が、急に広く、深くなっていた。
いつの間にか、花火は終わっていたのだ。
「結局、少ししか花火見れなかったね」
名残惜しそうに、汐織が空を仰いだ。
もう、どこにも光はない。藍を通り越して、ほとんど黒に近い夜空が、ただ広がっているだけだ。
「まあ……しょうがないだろ」
麻貴はばつが悪そうに答えた。
生まれて初めての告白と、キスと。花火なんて、見ていられるはずがなかった。
「また見に行けばいいさ。花火大会なら、これからたくさんあるしな」
別に、花火大会はこれっきりというわけではない。
遠出すればこの夏だけでもたくさんあるし、来年も再来年もある。それ以外にも、縁日や盆踊りだって、夏休みが始まれば行きたい放題だ。
「そっか……うん、そうだよね。これからは、一緒に行けるんだもんね」
そこまで言うと、汐織は、また涙声になって、ぐずついた。
せっかく収まったのに、また感極まってしまったようだ。
「おい。また泣くのかよ」
「ごめん。嬉しくって」
泣き顔のまま、控えめに笑って。その笑顔が、これまで見てきたどの笑顔よりも、柔らかくて、可愛かった。
花火の終わった空が、急に広く、音を引いていた。
祭り囃子の名残も、もう聞こえない。残っているのは、虫の音と、葉擦れと、遠くの波の音だけ。無音に近い中に、ふたりだけが、灰色のベンチに残されていた。
笑い合った余韻が、すっと引いていく。
どちらからともなく、視線が重なった。
告白の前のような、あの気まずさは、もうなかった。ただ、見つめ合っているだけで、次に何が起こるのかを、お互いが、なんとなくわかってしまっている。そういう、静かな確かさだけがあった。
花火の消えた夜空の下、汐織の瞳が、わずかな星明かりを映している。
それが、ゆっくりと閉じられていった。
麻貴は、彼女の小さな顔に、そっと手を添える。
それから、どちらともなく顔を寄せ合って。ふたりの唇が、もう一度重なった。
「麻貴くん」
唇を離すと、汐織はじっとこちらを見据えた。そして──。
「大好き。ずっと一緒にいようね?」
幸せそうな笑顔を浮かべて。そう伝えてくれたのだった。
最初は台所を貸すだけの、ただの契約だったはずだ。
その契約は、たぶん、今ここで終わって。
そして、別の何かが始まろうとしていた──。
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