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第70話 伝え合う想い

 花火の光が、汐織の顔を照らしていた。

 頬の輪郭。片側にまとめた黒髪。薄く開いたままの唇。そして、大きく見開かれた瞳。驚きに満ちたそれが、瞬きもせず、まっすぐ麻貴に向けられている。

 瞳の表面に、ゆっくりと、水面の波紋みたいに涙が広がっていった。


「ほんと……?」


 信じられない、といった様子で、彼女が訊いてくる。

 その声は、震えていた。


「……もちろん。嘘でこんなこと言うかよ」


 麻貴は、しっかりと頷いてみせた。

 ついぶっきらぼうな物言いになってしまっているが、これはもう、照れ隠しみたいなものだ。 

 花火の音は、今も続いていた。でも、ここは本会場の百合ヶ浜からは離れた、山手の境内だ。腹に響く音は遠く、その合間には、ちゃんと声を届ける余白があった。穴場を選んだ理由は帰りの楽さのためだったが、こんなところで効いてくるとは。

 花火の合間に、麻貴はぽつぽつと言葉を継いだ。

 元来、口数が多いほうではない。気の利いた台詞も持っていなかった。それでも、今だけは、ちゃんと伝えたい。不器用でも、順番に。


「最初はほんと、ただのクラスメイトとしか思ってなかったよ。汐織が人気者なのは知ってたからさ。俺なんか、釣り合うとも思ってなかったし。遠くから見てるだけで、一生関わらないんだろうなって」

「そんなこと……」

「いいから。今は俺の好きに話させてくれ」


 汐織が否定しようとするので、片手でそれを制する。

 彼女は納得したように、うん、と小さく頷いた。涙を拭おうともしない。


「でも──それは、先月までの話。何でか知んないんだけどさ。俺は……お前のことを、放っておけなかった。……いや。柄にもなく、守りたいって。あん時から、思ってた」


 あの初夏の夕方。潮の匂いのする坂道で、膝を抱えていた彼女。あの時自分の中に芽生えた、柄にもない感情。

 そんな感情に、振り回されていたように思う。


「そんで、気付いたらお前が毎日来るのが当たり前になっててさ。胃袋も掴まれるし。汐織が来ない日は、なんかすげー寂しくなってるし」


 汐織は何も言わずに聞いていたが、「胃袋も掴まれるし」のところで、くすっと小さく笑っていた。

 麻貴は、一度、息を吸った。ここからが、本当に言いたいことだった。


「いつから好きだったのかなんて、正直覚えてない。たぶん……ずっと前から、好きだったんだと思う。一緒に過ごしてるうちにさ。でも──この気持ちは、言っちゃダメなんだと思ってた」

「どうして?」


 汐織が、不思議そうに首を傾げた。

 その拍子に、肩が小さく上下する。


「……断れないんじゃないかって。思ってさ」


 麻貴は視線を逸らし、答えた。

 その一言で、きっと汐織は全てを察したのだろう。彼女の瞳が大きく見開かれて。喉の奥で、小さく息が詰まった。

 汐織にとって、麻貴の部屋は避難所同然だった。

 その部屋の主から告白されたら、きっと彼女は断れない。その告白をしてしまった時点で、断るか避難所を失うかの二択を強いることになってしまうからだ。どう転んだって、汐織にとってはいい結末にはならない。

 だから、言えなかった。言うべきじゃないと思った。それを強く自覚したのは、あの嵐の夜だ。


「そういうのって、なんかずるいなって。お前の弱みに付け込むみたいでさ。だから、言えなかった」


 花火が、また一発、夜空を裂いた。

 その光に、汐織の頬を伝う涙が、ちらりと光る。

 すると──。


「麻貴くんの……バカ」


 少し、怒ったような、拗ねたような。そんな感情が混じった涙声が、返ってきた。

 思ってもいなかった言葉に、「えっ?」と麻貴は困惑の声を漏らした。

 汐織は目を伏せ、言った。


「断らないよ……断るつもりなんて、最初からなかったし。勝手に決められるの、やだ」


 汐織の言葉で、はっとする。

 そうだ。隼太からも言われていたではないか。判断するのは汐織であって麻貴ではない、と。

 もしかすると、外から見ていた隼太や沙子の方が、汐織の気持ちにも気付いていたのかもしれない。だからこそ、色々発破を掛けてくれていたのだろう。

 汐織の本心に気付いていなかったのは、麻貴だけだったのだ。

 だからこそ、彼女も昨日、色々と行動を起こさざるを得なかったのかもしれない。

 グラウンドの借り物競争で手を繋いでみせて。そして、教室でも、あの悲惨な状況をひとりでやってみせた。

 あの時の汐織の表情を、今でもはっきり覚えている。声を荒げるでもなく、ただいつものように微笑んで、たった一言で、あの包囲網に蓋をしてみせたのだ。


「……ごめん。そう、だよな」


 言葉に詰まって、首を垂れた。

 これに限っては、一方的に自分の思い込みで判断してしまった麻貴が悪い。弁明のしようがなかった。


「ううん……謝らないで」


 しかし、汐織は首を横に振った。

 イヤイヤをするように、何度も。結んだ唇の端が、小さく震えた。


「麻貴くんは、ずるくなんてないよ。私のほうが……ずっと、ずるいから」


 もはや、涙で声が掠れていた。


「は? お前のどこがずるいんだよ」


 麻貴は眉を寄せた。

 汐織にずるい要素なんてどこにもないように思うのだが。

 彼女は洟を啜って、それから、途切れ途切れに話し始めた。


「最初は、ね……ただ、家に帰りたくなくて。時間を潰す場所が、ほしかっただけなの」

「まあ、だろうな」


 それはわかっていた。学校から一駅わざわざ歩いて時間を潰していたくらいだ。どこか寄る場所があるなら、それに越したことはない。


「でも……でもね。麻貴くんと一緒だと、凄く楽な気持ちでいれたの。ご飯も美味しくて。いつも優しくしてくれて。そのうち、私もどんどん麻貴くんに甘えちゃってて」


 声がまた震えて、ひっくとしゃくりあげる。


「迷惑だって、わかってた。毎日クラスの女子に来られるなんて、迷惑に決まってるって。それなのに、毎日通っちゃってた。止められなくなっちゃってたの。そのくせ、いつか追い出されるかもって、うざがられるかもって怖くて。だから、何か役に立たなくちゃって、あれこれ世話焼いて」


 膝の上で、汐織の指が、巾着の紐をきつく握りしめていた。


「私ね? 気付いてたの。麻貴くんが、私のことをただのクラスメイトだとか、ただ自分の部屋に逃げてくる子とか。そういう風に腫物扱いしてるわけじゃないって。私のことを凄くちゃんと見てくれるって、わかってた」


 ひっく、と喉が鳴る。


「気付いてたのに、知らないふりして。ずっと、甘えてたの。だから……私のほうが、ずっとずるいよ」


 そこで、汐織は一度、大きく息を吸った。


「それなのに、麻貴くん……何もしなくていいって、言ってくれて。ここにいてくれるだけで嬉しいって」


 あの嵐の夜。麻貴が、抑えきれずに口にした言葉だ。


「そんなの言われちゃったら……もう、私も自分に嘘、吐けないよ」


 そこまで言った頃には、汐織はもう堪えきれずに泣いていた。

 涙がぽろぽろとその頬を伝って、零れ落ちていく。

 麻貴は、その小さな顔に、片手をそっと添えた。親指で、頬を伝う涙を、不器用に拭ってやる。


「ねえ、麻貴くん……」

「ん?」

「好き……大好き」


 こちらをじっと見つめて、そう紡いだ。

 その拍子に、また大粒の涙が頬を伝う。

 麻貴も汐織も、近過ぎて見えていなかったのだ。

 お互い、相手のことが好きだったのに。片方は「居場所の主だから言えない」と飲み込んで、もう片方は「役に立たないと、いる資格がない」と縮こまっていた。毎日、あの狭い台所に並んでいたくせに。


「汐織」


 そんな彼女をじっと見据えて、名を呼んで。

 もう一度、はっきりと言った。


「……好きだ。嫌じゃなかったら、俺と付き合ってほしい」


 その言葉に応えるように、汐織は麻貴の手の上に、自らの手をそっと重ねた。

 冷たい指先。けれど、手のひらの真ん中だけは、いつもの温かさで。

 強張っていた頬が、ゆっくりと和らいでいく。そして、小さく、けれど確かに──。


「……はい。こんな私でよければ、喜んで」


 その返事を聞いて、麻貴の中で、ずっと押さえつけていたものが、弾けた。

 正面から、彼女を抱き締める。


「好きだ。汐織……ほんとに、好きだ!」

「私も。私も、麻貴くんが、大好き……!」


 汐織も、麻貴の背中に腕を回してきた。

 それから、まるで哀訴するかのように。必死に、そして懸命に、自らの想いを口にする。


「ずっと……ずっと、好きだったんだから。私だって、麻貴くんのこと、大好きなんだから……っ」


 落涙に咽びながら、汐織も手繰り寄せるようにして麻貴の背中を掴む。

 彼女の言葉が、想いが、胸の中に染み渡っていった。

 一度は躊躇ってしまったことがある想い。でも、もうこの気持ちを抑えられるものなんて何もなかった。

 あの嵐の夜に堪えていた分がそのまま力となって現れ、力いっぱい彼女を抱き締める。体が溶け合ってひとつになってしまうのではないかと思うくらいに、互いに強く抱き寄せ合っていた。

 雨の夜にも、こうして抱き締めた。

 でも、あの時とは、何もかも違っていた。あの時は、崩れ落ちそうな彼女を、支えるためだった。でも今は──ただ、好きで。大好きだから、抱き締めている。

 汐織が愛おしくて堪らない。自分の中にこれだけ強く人を想えて、そして慈しむ気持ちがあったのかと驚いたくらいに。それほど切なくて、この感情を表現する術がわからなかった。

 それはきっと、汐織も同じだったのだと思う。

 ふたりは互いに腕の力を緩めて、顔を見合わせた。

 花火の光がその綺麗な瞳に反射していて、いつも煌めいている瞳が、より輝いて見える。

 どちらともなく顔を寄せて……ふたりの唇が、重なった。

 重なった唇が、燃えるように熱くて。その熱が、全身へと広がっていく。

 初めて、汐織と繋がった気がした。

 体の一部が触れたことなら今までもある。でも、これは手を繋ぐこととも、抱擁とも違っていて、心が結ばれていくように思えた。

 一度してからは、もう止まらなかった。花火になんて目もくれず、何度も何度も唇を重ね合わせる。これまでの記憶さえ霞むほどに、汐織の感触を、熱を、吐息を脳裏に刻んでいった。

 それからどれだけ唇を重ねただろう? 唇を離した時……汐織は、潤んだ声でこう言った。


「私……もう、我慢しないよ?」


 思わず笑ってしまった。

 まさか、あの篠宮汐織からそんなことを言われる日が来るだなんて。

 返事の代わりに、麻貴は両手で彼女の小さな顔を包み込んで。


「俺も、もう我慢しないからな」


 もう一度、キスをした。

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