第69話 ずっと、好きだった
坂を上り切ったところに、苔むした石段が現れた。
両側から木々が覆い被さるようにして、その上は薄暗い。参道の脇には、誰も手入れしていないらしい小さな祠と、傾いた灯籠がひとつ、ぽつんと残されていた。
石段は、十数段ほどだ。
「足元、気をつけろよ」
「うん」
手を繋いだまま、滑らないようにゆっくりと、一段ずつ上がっていく。少し滑りそうになった時は、彼女がぎゅっと麻貴の手を握っていた。それに応えるようにその手を強く握り返し、彼女を支えるように上がっていく。
上った先に、小さな境内があった。
拝殿の塗装は、あちこちで剥がれて木目が出ている。賽銭箱の前のしめ縄は風化して、もう白さなど残っていなかった。石畳には細い隙間が走っていて、その間から雑草が伸びている。脇には古いベンチがひとつあって、板は風雨に晒され、すっかり灰色になっていた。
案の定、境内には誰もいなかった。
聞こえるのは、風と虫の音だけだ。遠くの祭りの気配が、ごく微かに聞こえている。
「わぁ……ほんとに誰もいないんだ」
石段を上りきった汐織が、感嘆の声を漏らした。その声が、思いのほか遠くまで届く。それくらい、ここは静かだった。
「だろ? ここ、昔から人がいなかったんだ」
麻貴は賽銭箱のほうへ歩きながら答える。風化したしめ縄が、夜風にわずかに揺れていた。
「よくこんなところ知ってたね」
「小学生の頃、このへんにカブトムシ取りに来ててさ。そんで、海が一望できるだろ?
ここからなら花火見えるんじゃねって、翌年友達と来たんだよ」
話しているうちに、つい懐かしさで口が軽くなった。虫かごを自転車の前カゴに突っ込んで、暗くなるまで山を走り回っていた、あの頃。今では虫を触るのさえ嫌なのに、どうして捕まえる気になったのだろう。小学生の謎のひとつだ。
「麻貴くんもちゃんと男の子だったんだなぁ」
くすっと、汐織が口元を綻ばせた。
「どういう意味だよ」
「だって、なんだか大人っぽいから。あんまり、そういう子供っぽい遊びしてるイメージなくて」
悪気のない顔で、彼女が小首を傾げる。大人っぽい?
どこからそんな感想が出てくるのだろうか。買い被りもいいところだった。
麻貴は肩を竦めて、小さく溜め息を吐く。
「気のせいだろ、それ。ただのクソガキだよ。今も昔も」
「そうかな? そんなことないと思うけど」
くすくすと肩を揺らし、汐織は境内をぐるりと見回していた。
それから拝殿のほうに向かうと、賽銭箱に小銭を入れて、小さく手を合わせる。
「場所、ちょっとだけお借りします」
二拝二拍手一拝の後、彼女はそう囁いた。
こういうところも汐織らしいなと思ってしまう。
誰もいない境内を花火鑑賞に使わせてもらう、というその発想。麻貴なら、まずはその考えに至らない。麻貴も同じように賽銭箱に小銭を入れて、頭を下げた。
拝殿の裏手は、ちょうど木立が切れていて、海と空に向かって視界が抜けている。本来なら鬱蒼としているはずの境内の、そこだけが、ぽっかりと開けていた。木々の縁取りの向こうに、群青に沈みかけた海が見える。
汐織は巾着からハンカチを取り出すと、灰色のベンチの上にそっと広げた。
ふたりで並んで、腰を下ろす。
座ると、肩と肩が、ほんの少しだけ触れる距離になった。
しばらく、ふたりとも、何も言わなかった。
遠くで囃子が鳴って、風で消える。また鳴って、消える。木々の向こうの空は、藍と黒の中間くらいの色に染まりかけていた。葉擦れの音が、時々頭の上を渡っていく。
スマホで時間を確認してみると、ちょうどいい時間だった。花火が上がるまで、あと数分といったところだ。
気付けば、麻貴は自分の膝のあたりに目を落としていた。
言うなら、今しかない。
花火が始まってしまえば、きっとふたりの意識はそちらに奪われ、言葉を呑み込んでしまうだろう。かといって、観終わってからでは、たぶん勇気がもう一度溜まる前に、帰りの電車に揺られている。
言え。早く言ってしまえ。
そう何度も自分に言い聞かせているのに、声が出てくれない。
腹の底で繰り返してきた言葉が、喉のあたりで引っかかって、そのたびに唾と一緒に飲み込まれていく。鼻から息を吸って、ゆっくり吐いた。それでも、心臓はちっとも静まってくれない。むしろ、静めようとすればするほど、その鼓動が耳の奥にまで響いてくる気がした。
隣を見たいのに、見られない。
膝の上に置いた自分の手が、いつのまにか軽く握られていることに気づく。手のひらが、じっとり汗ばんでいた。夏の宵の暑さのせいにしておきたかったが、そうではないことを、誰よりも自分がわかっている。
ポケットに手を入れて、財布の角に指先を当てる。
その奥の、キーホルダー。彼女の名前が彫られた、あの金属片。
(はあ……何で、こうもチキンなのかな、俺は)
指先で、その輪郭をなぞる。すると、昨日の体育祭の光景が、ふっと頭の隅をよぎった。教室の真ん中で、男どもにぐるりと囲まれた自分。その輪を、汐織がたった一言で割って入って、無力化してみせた、あの時の微笑み。
あの嵐の夜、麻貴は決めたはずだった。彼女が自分の足で立てるようになるまで、この想いは飲み込んでおく、と。避難所の主から好きだと告げてしまえば、汐織はきっと、断れない。それは卑怯だと思ってしまったから。
でも、昨日。
あの教室で、彼女は誰の手も借りずに、あの場を切り抜けた。麻貴を救い、自らの意思を示したのだ。
あの時点で、もう答えが出ていた。
この子は、ちゃんと自分の足で立っている。もう、避難所に依存しているような弱さはなかった。いや、むしろ、その避難所をちゃんとふたりの居場所にしようとしているようにさえ、感じられた。
横目で、そっと窺う。
汐織は浴衣の膝の上で、巾着の紐を指先で何度も結び直していた。その横顔は、まだ何も上がっていない空のほうへ向いていた。だが、それは「待っている」というより、待つふりをして、気持ちを落ち着かせようとしているようにも見えた。
(……もしかして、汐織も同じ、だったりするのかな)
ふと、そう思ってしまった。
今この状態で彼女が欲しているのは、きっと──。
麻貴の意識が、ゆっくりと汐織のほうへ傾いた。
ちらりと横を向いてみると。
ちょうど同じタイミングで、汐織も同じようにこちらを向いた。
吸い込まれるように、ふたりの視線が、真ん中で重なる。
「「あっ……」」
ふたりの口から、同時に小さく声が漏れる。
不思議だった。
さっきまでの緊張も、気まずさも、うるさかった心臓の音も、その視線の重なりひとつで、すうっと薄まっていく。
気づいた時には、もう、声は喉を通り抜けていた。
「汐織」
「うん……?」
緊張した面持ちで、彼女がほんの僅かに首を傾ける。
麻貴は、その青みがかった瞳を、まっすぐに捉えた。
初めて坂道で蹲っているのを見つけた時から。台所に並んだ夜から。ふたりで初めて海を見た日から。雨と雷のあの晩から。榎島の岩場から、体育祭のグラウンドまで。ずっと胸の奥に積み重なってきた言葉の中から、そのひとつを選ぶ。
長く言えば言うほど、きっと言い訳めいてしまうだろう。
伝えるのは、一言で十分だ。
「……ずっと、好きだった」
自然と、言葉がするりと出てきていた。
汐織の瞳が、大きく見開かれる。
口元が、微かに動いて。でも声にはならなくて、睫毛が一度だけ、揺れた。
そして──ほんの一拍、遅れて。
空に、色が咲いた。
ドォン、と腹の底に響く音。
木立の向こうで、最初の一発が、夜空を裂いて開いた。暗かったはずの境内が、ほんの束の間、赤と橙に染まる。汐織の頬と、浴衣の襟元と、灰色のベンチの板が、その色を浴びていた。
彼女の目の奥に、花火の光が映り込んでいる。
それでも汐織が向いているのは、空ではなく麻貴のほうだった。
続けて、二発目。三発目。
光が先に咲いて、音は遅れてやってくる。夜空がぱっと開いては、すぐにまた暗くなる。それが、何度も繰り返された。
汐織は、口をほんの少しだけ開けたまま。じっと、身じろぎもせずにいた。
その頬には、夕陽でも提灯でもない色が、ぽうっと差していた。
空の上で何度目かわからない花が開いて、その光の中で、汐織はまだ、何も言わずに、麻貴のほうを見ていた。




