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第68話 ふたりだけで

 住宅街に入ると、道は急に細くなった。

 古い民家の塀が両側に迫って、舗装の継ぎ目に、ちょっとした段差が現れる。街灯は片側にしか立っていなくて、足元には薄い影が落ちていた。

 麻貴はふと振り返って、汐織の足元に目をやった。


「あっ。そういや足とか大丈夫か? それ、歩きにくいよな」

「うん、平気。草履にしたから」


 言って、彼女は片足をひょいと上げた。

 からころと音がしていなかったことで気付くべきだったが、よく見てみれば草履だ。


「あ、ほんとだ。下駄じゃないんだな」

「下駄だと足が痛くなっちゃうから。せっかくの日に、そういうのは嫌だし……」


 なんでもないみたいに「せっかくの日」と言ってのける。

 言った当人は、たぶん何も気付いていない。麻貴のほうが、その一言で勝手に詰まっていた。


「そ、そっか。もし痛かったら言ってくれ」

「……わかった。ありがとう」


 ふわりと汐織が笑って、小首を傾げた。

 心臓が、相変わらずきゅっと締め付けられる。

 並んで歩く距離が、駅前にいたときよりも、ほんの僅かに近くなっていた。

 肩がぶつかるほどではない。ただ、腕を振るたびに、その間の空気がときどき触れ合いそうになった。

 手でも繋いだ方がいいのだろうか?

 わからない。

 もしかすると、それが正しいのかもしれない。

 でも、これからの返事を聞いてからの方がいい気もした。

 結局、そのままの距離感で目的地を目指す。

 蛇のように折れ曲がった細い路地。蝉の声は、いつの間にか虫の音に変わりつつあった。夏の宵が、ゆっくりと深くなっていく。

 麻貴は、ぽつぽつと昔の話を始めた。


「小学生の頃、夏休みになるとこのへんで遊んでたんだよな」

「地元、このへんだったの?」

「ああ。家はもうちょい離れてたんだけどさ。地元の友達と、自転車で走り回ったなぁ」

「楽しそう」

「まあ、楽しかったよ。何にも考えてなかったしな。夕方のチャイム鳴っても絶対門限に家帰んなくてさ。よく叱られたよ」


 言いながら、自分でも少し笑ってしまう。

 あの頃は、明日のことも、来年のことも、何ひとつ考えていなかった。考える必要が、なかったのだ。

 それを思えば、今はその逆だ。明日のことばかり考えている。それはきっと悪いことではないのだろうけど、純粋さからはどんどん遠ざかっている気がした。

 塀の上から、誰かの家の庭木が枝を伸ばしている。葉の隙間から漏れる街灯の光が、足元でちらちらと揺れた。どこかの窓から、夕飯の支度の匂いが微かに流れてくる。煮物の、醤油と出汁の混じった香り。汐織がいつも作るのと、少し似ていた。


「……いいなぁ」


 汐織が、ふと漏らした。

 その「いいなぁ」の奥に何があるのかも、もう何となくわかってしまう。彼女が当たり前に過ごせなかったもの。気兼ねなく帰れる家とか、何も考えずに遅くまで遊んでいられる夕方とか。たぶん、そういうものだ。お母さんが亡くなってから失われてしまった、そんな当たり前の子供時代。

 でも、敢えて何も触れなかった。

 それが、ふたりのルールだ。

 代わりに、麻貴は続けた。川で滑って尻もちをついた話。捕まえたカブトムシを逃がして泣いた友達の話。どれもこれも、しょうもないことばかりだ。けれど、自分が喋っている間は、汐織は聞いている側でいられる。

 今夜は、それが正解に思えた。

 汐織は時々「そうなんだ」と相槌を打ったり、「ふふっ」と肩を揺らしたりしながら、麻貴の半歩後ろを歩いていた。話の合間に、坂の上のほうの空を見上げている。まだ何も上がっていない、群青の空。その表情は、さっきよりも少しだけ和らいでいるように見えた。         

 路地の途中で、ぽつんとコンビニの看板が光っていた。

 汐織が「あっ」と小さく声をあげる。


「お水、買っていい? ちょっと喉、乾いてきちゃった」

「俺も俺も。寄ってこうぜ」


 自動ドアをくぐると、やや冷房がきつかった。浴衣の汐織が、肩を軽く竦める。

 麻貴はペットボトルのお茶を一本掴んだ。汐織のほうは、飲み物の棚の前でしばらく迷ってから、瓶のラムネを手に取った。


「ラムネ? 渋いな」

「夏祭りっぽいかなって。それに……限定って書いてあるし」


 そう言ってはにかむと、その文字に目を落とした。

 どうやら、限定ものに弱いらしい。

 そんな一面を見たのは、初めてだった。

 レジに並ぶと、麻貴はさっと彼女の手からラムネ瓶を抜き取り、両方をまとめて会計した。

 汐織が「えっ」と巾着から財布を出しかけたときには、既に支払いは終わっていた。


「あ、あの。私の分……」

「今日はいいから」

「……じゃあ、今日はご馳走になるね」


 彼女は嬉しそうに顔を綻ばせると、小首を傾げた。

 今日は、と強調するあたりが何とも彼女らしい。

 いつもスーパーでは麻貴が出しているが、そう言えば今日のこれは〝契約外〟だ。何となく、いつもこうして彼女の分も出すのが癖みたいになっていた。

 何だか、悪くない。

 店を出て、早速汐織がラムネのビー玉を落とそうとしていた。でも、力加減がわからないのか、手こずっているようだ。


「貸してみ」


 麻貴は瓶を受け取って、付属の道具で、ぐっとビー玉を押し込んでやった。しゅわっと小さく泡が立つ。


「わっ。麻貴くん、こういうの上手いんだ?」

「誰でもできるって」


 それを返すと、汐織は拗ねたような顔をして、こちらをじぃっと見上げた。


「……私はできなかったけど」

「たまには、汐織よりできるところ見せないとな」

「むぅ」


 不服そうに、ラムネ瓶に口を付けた。すると、すぐに目を細めて「おいしっ」と呟いていた。


(美味しい、か……)


 いつの間にか、当たり前に出るようになったその言葉。

 でも、先月の彼女にとって、それは当たり前ではなかった。

 こんな風に、当たり前は更新されていって。別の何かになるのだろうか。

 それはそれで、寂しい気もするけれど。何でもかんでも当たり前だと思わないのがいいのかもしれない。

 住宅街の奥に進むにつれて、道は少しずつ上り坂になっていった。

 アスファルトのひびが割れていて、ところどころに段差が出てくる。汐織が一度、草履の鼻緒のあたりを気にした。


「痛むか?」

「ううん。ちょっと擦れるかなって思っただけ」

「まあ、あんま無理すんなよ。きつかったらおぶってくから」

「それは恥ずかしいよ」


 そんなやり取りをしながら、坂を登っていく。

 もう少し進むと、急な坂の手前に出た。

 麻貴は一瞬だけ迷って。決意を固めてから──できるだけ自然な動きを装って──手を差し出す。


「滑ると危ないから」


 それ以上の理屈は、何もつけなかった。

 言ってから、自分の台詞があまりに少なすぎることに気付いて、内心で叫び出しそうになる。もっと、言い添えることがあっただろうに。


「……うん」


 汐織は小さく頷いて、その手に自分の手をそっと重ねた。

 指は絡めない。手のひらだけが、軽く触れる程度。

 汐織の指先は、夏なのに少し冷たくて。それでいて、手のひらの真ん中だけは、相変わらず温かい。

 稚児ヶ淵で繋いだ、あの時と同じだった。

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