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第67話 やっぱり彼女はずるい。

 鎌蔵駅前の時計は、五時四十分を指していた。

 約束は六時。いつもの五分前行動どころか、二十分前だ。麻貴は街路樹の下に立って、その二十分を、できるだけ意識しないようにしていた。楽しみや緊張で早く来すぎただなんて、認めたくない。たまたま電車の都合がよかっただけだ。そういうことにしておこう。

 駅前は、夏祭りの夜の顔をしていた。

 改札からは浴衣の人波がひっきりなしに吐き出されてくる。家族連れ、カップル、はしゃいだ高校生の集団。その大半が、申し合わせたみたいに南へ、百合ヶ浜の方角へと流れていった。提灯の赤い灯りが軒先に連なっていて、どこかの屋台から、ソースの焦げる甘い匂いが風に乗ってくる。

 賑やかだった。賑やか過ぎて、その真ん中に突っ立っている自分だけが、何だか異物のように思えた。

 服装は、結局三回着替え直した。黒の半袖シャツに、デニム。鏡の前でああでもないこうでもないとやった末の、いつもとそう変わらない格好だ。それでも、榎島に行った時よりは明らかに気合いが入っている。当人は、断じて気合いなど入れていないことになっているのだが。

 手持ち無沙汰に、ポケットの中で財布の角に触れた。

 その奥に、小さな金属のキーホルダーがある。確かめなくても、指先がもう覚えていた。彼女の名前が彫られた、あの数百円の板きれ。昨日の夜、お守りみたいなものに変わったと思った、あれだ。

 ひと撫でして、ふっと息を吐く。

 昨日の砂浜の、小指の感触がまだ残っていた。ちょん、と引っ掛けられて、すぐにほどけた、あれ。消えてくれと願ったのに、一晩経っても指の側面にしつこく居座っている。

 告白の言葉は、何度も頭の中で組み立て直した。組み直しすぎて、たぶん、もはや全部の語順を忘れてしまっている。


(……緊張してるなぁ。いや、そりゃ緊張するか。告白なんかしたことないし)


 心の中で自分に呆れて、麻貴はもう一度、人波の流れる改札のほうへ意識を戻した。

 六時ちょうどに、電車がホームに滑り込んだ。

 人の流れの向こうに、見覚えのある長い黒髪が見えた。

 遠目でも、それが誰なのかはすぐにわかる。でも、今日のそれは、麻貴の知っているどの汐織とも違っていた。

 彼女は──紺地の浴衣を身に纏っていたのだ。裾のあたりに、淡い白の朝顔が控えめに散っている。帯は生成りに近い色の半幅で、胸の高さで小さく結ばれていた。派手さはあまりなく、むしろ涼やかな装い。でも、それがいかにも汐織らしくて、よく似合っていた。

 いつも下ろしているだけの髪は、今日は片側に流して、ゆるくまとめてあった。露わになった耳の上のあたりに、細い簪が一本。提灯の灯りを浴びて、その先端だけがちらりと光る。歩くたびに、巾着の紐が手元で微かに揺れていた。

 そこまで辿って、麻貴の思考は、一拍だけ止まった。

 いや、止まったというより、追いつかない。一度に飛び込んできた情報が、多すぎた。


「お、お待たせしました……」


 汐織の語尾が、最後のところで消えた。

 視線がふらふらと泳いでいる。両手で巾着の紐を、結んだりほどいたりしていた。いつもの三割増しで、もじもじしている。

 待ってないよ、とか。よう、とか。

 言うべきことは他にも色々あったはずなのに、それらを探す前に──。


「……似合ってる」


 気付けば、口がそう言っていた。

 そこで我に返り、慌てて顔を伏せて彼女の肩のあたりへ逃げた。挨拶もなしにいきなり『似合ってる』って。褒めるにしても、もっと気の利いた言い方が、いくらでもあっただろうに。


「えっ?」


 汐織は驚いたように目をぱちくりさせた。


「ほんと……?」


 それから、上目遣いで遠慮がちにそう訊いてきた。

 頬が、ほんのりと赤くなっている。それはおそらく、提灯のせいではないだろう。

 麻貴は言った。


「ああ。なんつーか……うん。すごく」


 後半が「すごく」だけになって、そこで詰まった。

 情けないにも程がある。けれど、今の麻貴に出せるのは、本当にそれが精一杯だった。


「えへへ……やった」


 汐織が、浴衣の袖をほんの少しだけ口元に寄せて、はにかんだ。

 その仕草がまた、反則級に可愛かった。心臓に直接、なにかがぶっ刺さる感覚だ。

 昨日の体育祭の、あの借り物競争。

 それから教室での「一緒に、帰ろ?」。

 あれだけのことをしておいて、改めてこうして向かい合うと、何故か初対面のときより照れてしまう。妙なものだった。

 目の前にいるのは、麻貴の知っている篠宮汐織のはずだ。いつもうちの台所でエプロンをつけている汐織で、色々なご飯を作ってくれる汐織。その日常の延長線上に、今日の彼女もいるはずなのに。

 今夜の彼女は、何故か別人みたいに見えた。

 わざわざ浴衣まで着て、麻貴のために来てくれたのだ。それを思うと、じわじわと胸の真ん中に効いてくる。


(……ずるいな、ほんと)


 汐織は、ずるい。

 あまりにも、麻貴の心を奪う術を知り過ぎている。それはいつものことなのだけれど、今日その追い打ちはダメだ。きっともう。今日の汐織を、一生忘れられない。


「じゃあ、行こうか」

「……うん」


 短く頷いて、汐織が麻貴の隣に並んだ。

 人波は、相変わらず南へと流れていく。百合ヶ浜方面、花火の本会場だ。

 麻貴はその流れから少しズレて、駅から東南側へ、住宅街のほうへと足を向けた。

 汐織が一瞬きょとんとして、それからすぐについてくる。道を疑う素振りもない。麻貴の選んだ方向を、完全に信じきっていた。


「百合ヶ浜の方じゃないんだ?」

「あっち行くと、結局百合ヶ浜駅から行くのと大差なくなるからな」

「あ、そっか」

「花火までの距離なら、浜辺まで行った方がいいんだけどな。でも、まあ……あんま人が多くない場所の方がいいんじゃないかなって思って」


 ちらりと彼女の横顔を盗み見つつ、訊いてみた。

 これで人が多い方で見たいと言われたら告白的にはNGに近いのだが──。


「……うん」


 汐織は小さく頷いて。


「ふたりで観たいな」


 そう、付け加えたのだった。

 その答えに、麻貴は前を向き直しつつも、心の中だけで悶絶した。

 表向きは平然と先導しているふりをして、内側はそれどころではない。


(だからさ……勘弁してくれって)


 角をひとつ曲がるたびに、駅前の喧騒がひとつ分、遠くなっていく。

 提灯の灯りも、屋台の匂いも、少しずつ背中に置き去りになっていった。



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